Nostalgia

ヴィクトリア朝蒸気機関譚
大塚已愛
大塚已愛

13

公開日時: 2020年9月19日(土) 18:00
文字数:2,786

 この会話から一時間後、メアリは箱形馬車ブルームに乗せられて、フィッツロヴィアにある教授の家へ連れてこられた。


 屋敷のメイドに暖かいお湯がたっぷり張られた浴室へ案内され、そこで久しぶりに入浴をさせてもらった。擦り傷が染みたが、それよりも、暖かく良い匂いのするお湯に浸かる事の素晴らしさの方が勝っている。


 英国人が入浴の楽しみを覚えたのはここ最近のことだ。それまでは、ウェリントン公が提唱した水風呂による健康法でしか、風呂というものは認識されていなかった。かつて英国では医者達が『入浴はリューマチや呼吸器疾患を悪化させる』と唱えたために、健康のためには、温かいお湯で毎日入浴するなどは以ての外だったのである。


 しかし、医学の進歩により、体を清潔に保つ事の大切さがわかってくると、一般家庭にも浴室が設置され、毎日の入浴が当たり前になっていった。浴室の持てない労働者階級の為にも公衆浴場が用意され、タオル付きで二ペンスという手頃な値段で入浴が出来るようになっていったのである。


 そんな中でも、貧民街の人間が湯に浸かることはあまりなかった。湯に入りたいのは山々だが、公衆浴場はイーストエンドに多くないし、木賃宿の一泊の宿泊費とほぼ同額の金を、たかが入浴に使えるほど、彼等の収入は多くなかったからである。メアリの場合は更に、体が傷だらけだという理由もあって、殆ど公衆浴場には行けなかった。自宅で大きな盥に湯を張って、そこで汗を流すのが関の山だ。


 バスタブの中で手足を伸ばせる感覚は素晴らしかった。気持ちよすぎて、全身がふやけるくらい入り続け、メイドが心配して様子を見にきた程である。


 用意された新品の寝巻きは肌触りがとても良かった。それを着て、ふかふかで暖かいベッドの中に潜り込んだ事までは覚えている。


 夢のようだと思う間もなく、あっという間に眠りについて、そうしてあの夢を見て、目覚めたのだ。


 時計は九時半を指している。たっぷり七時間は寝たらしい。寝過ぎたと思ったが、しかし、昨晩の出来事を思い出すと、仕方ないともそう思う。


 伸びをしてゆっくりとベッドから起き上がると、メアリは寝巻きのままで床に立ち、改めて室内を見回す。


 酷く新しい匂いのする部屋だった。壁紙は勿論、絨毯や置かれているチェストも新品のようであるし、よく見れば水道まであるようだ。


 用意されていたふかふかのスリッパを履くと、少し乱暴に、洗面台で顔を洗った。頬の傷がまだ痛んだが、冷たい水は、頭をいっぺんに冷やしてくれる。昨日のことも、今日の悪夢も、すべて洗い流されるような気がした。


 ふとベッドサイドを見ると、そこには真新しい服が用意されていた。落ち着いた色をした、近頃流行の羊脚袖のドレスである。仕立ての良い服に袖を通すと、びっくりするほど着心地が良くて、それもまた驚いた。


 着替えを終えて、髪を調えてから、さて、これからどうしようと思っていると、ドアが驚くほど正確無比な間隔でノックされる。


「どうぞ」


 慌てて返事をすると、包帯や薬瓶が乗った盆を持ったウィリアムが表れた。相変わらずの無表情だが、昨日と違い、その目の蒼は茫としている。


「おはよう。そろそろ目が覚めた頃合いかと思って」


 無感情な銀色の声もまた、相変わらずだ。数字も昨日とまったく変わらない。メアリも慌てて挨拶をする。


「おはようございます。昨日は御世話になりました」


 その挨拶に、ウィリアムが少しだけ頷いた。


「僕は特に何もしていない。君の方こそ、さぞや大変だったろう。傷の具合はどうだろうか」


 心配をしてくれているのか、数字の纏う銀色が、ほんの少しだけ沈む。メアリが慌てて手を振り言った。


「大丈夫です。もう殆ど痛くないですから」


「だったら良かった。でも、痕が残ると大変だ。手当てをさせてくれないか」


 淡々と告げるウィリアムの声は、決して無理強いしている風ではないのだが、なんとなく断りにくい不思議な迫力があった。メアリは言われるままにベッドに腰を下ろし、治療を受ける。


 頬の傷に塗られた膏薬は、とても優しい香りがした。強い消毒液の香りもなく、阿片チンキの匂いもしない。傷の上にはガーゼが貼られる。


「あの、足の方は自分でできますから……」


 膝小僧の手当てをされる時だけ、メアリは少し逆らった。この時代、男性に踝から上の部分を見られるのは、胸をさらけ出すくらいに恥ずかしいことなのだ。顔の傷は一人では巧く手当てできないかも知れないが、しかし、膝小僧なら自分でも出来る。


 しかし、ウィリアムははっきりと頭を振った。断然きっぱりと断言する。


「僕は医療も学んでいる。素人の手当てでは、疵痕きずあとが残ってしまう畏れもあるんだ。だから、僕に手当てをさせてくれ」


 メアリに傷が残らないよう、本心から気を遣ってくれているのが解る声だった。無感情なくせに、とても誠実で、そうして心配してくれている、そんな声だ。


 医者に体を見せて恥ずかしがるのは、その仁に対しての無礼だろう。その声に押されるように、メアリは小さく頷いた。


「……はい、わかりました。よろしくお願いします」


 恥ずかしいのに変わりは無いが、しかし、彼の誠意を無下に断る勇気もメアリにはない。


 ウィリアムは、床の上に片膝をつき、メアリの足の手当てをする。丁寧に薬を塗り込み、そうして綺麗に包帯を巻いた。その間、メアリは足を見られていることを意識しないように、ウィリアムの様子をじっと観る。


 昨晩は気付かなかったが、この青年は両利きだった。とても器用だというのは、傷の手当ての手際の良さからも窺える。ディットーズは昨晩と同じ物だが、中に着ているシャツは洗い立てのようだ。シャツは立て襟ではなく折り返し襟で、フォアインハンド・タイを結んでいた。


 その姿に、ふっと閃くものがあり、メアリは思わず訊いてしまう。


「ウィリアムさんも、このお屋敷に住んでいらっしゃるんですか?」


「ああ。住むというより、助手としてここに置いて貰っているといった方が正しいかな」


 突然のメアリの問いにも、ウィリアムは一切動じる気配がない。声が纏う銀色や数字にも変化はなく、真実のようだ。


「教授の助手ということは、ウィリアムさんも数学が専門ですか?」


「専門というよりも、数学が馴染む、という方が正しいかも知れない。最初に知ったのが数学だから」


 そう言うと、ほんの少しだけ、ウィリアムは躊躇うように口を噤んだ。嘘とは違う、何かを言うか言うまいかを悩んでいるといった、そんな雰囲気である。


 だからこそ、メアリは何も言わずにウィリアムの手元を見つめた。長く整えられた指先は、まるで手品師や音楽家のようだとぼんやり思う。労働を知らない手というのではない。その逆で、常に訓練し、どんな動きでもできるようなしなやかさがある。所謂いわゆる、職人や芸術家の手、というやつだ。


 包帯を巻き終わったウィリアムは、立ち上がり、盆の上を片付けながら、ぽつんと言った。

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