突然、横殴りの突風が吹いた。
反射的に両足へ力を込め、アベルは倒れるのを防いだ。しかし、力を込めたことで全身の傷が開いてしまった。
砂礫が混じった風に身を晒すのは、やすりの海で泳ぐようなもの。
比喩でもなんでもなく身が削られる。
空きもせず吹き荒れる風が血を何処かへ運び、次の瞬間には、傷口は塞がっていた。
吸血鬼にとっては、まだまだ、かすり傷。ローティアの言う次元隔壁の内部に入ってから、もう何度も繰り返しているのだ。
このぐらいでは、怪我にカウントしていられない。
風が、ある程度収まった。
そのタイミングを見計らい、コフィンローゼスを文字通り盾にして、源素の渦動を進むアベル。
それでまた、全身に血が滲み、再生しては傷ついてを繰り返す。
その姿は、冒険者ではなく冒険家のもの。人跡未踏の地を目指す、探検家の雰囲気があった。ストイックで、どこか苦行者めいている。
カッツやルストが目にしたら、アベルへの尊敬をさらに深めるだろう。そんな光景だ。
しかし、アベル本人に、そんな意識はない。
正確には、自分がどう見えるかなど気にしている余裕はないと、いったところだろうか。痛いことは痛いが、《金剛》を使うまでではなかった。
『ご主人様痛い? 痛い?』
『心配してんの? 期待してんの?』
『ものさしにしてる』
『なるほどなー。よく分からん』
むしろ、スーシャの扱いのほうが難しい。
『ただ、ルシェルの呪文がなかったら痛いじゃ済まなかっただろうな』
別れる前にルシェルがかけてくれたのは、第三階梯の理術呪文《精霊円護》。
地水火風光闇。源素の諸力からの攻撃を緩和してくれる支援呪文だ。
砂礫の風は、どうやら物理的な攻撃になっているらしく効果がない。鉄は地に属するが、《精霊円護》で剣の一撃は防げない。それと同じことだろう。
しかし、それ以外の熱風により息苦しさや、風そのものによるダメージなどは抑えてくれている。この呪文がなかったら、そもそも呼吸できていたかすら怪しいところだ。
『さすがに、コフィンローゼスにはかけられなかったけど、大丈夫か?』
『問題ない むしろそれが問題』
『後半は聞かなかったことにする』
『もっと刺激が欲しいぐらい』
『聞かなかったことにするって言ったよな!?』
今のやり取りは、念話なので誰にも――距離が離れているのでマリーベルにも――聞かれることはない。
だから、前方から巨大な。
縦横5メートルはある氷塊が飛んできているのは、スーシャの願望に応えたわけではない。確実に完全に絶対に偶然だ。
『ご主人様 前から来てる』
『《剛力》』
アベルは、《疾風》で避けることも、《金剛》で耐えることも選ばなかった。
茨の鎖でつながったコフィンローゼスを振り上げ、嵐に逆らうように振り回し、氷塊目がけて振り下ろした。
遠慮も容赦もない一撃が巨大な氷塊に突き刺さり、その一点からひび割れが広がり――崩壊した。
轟音とともに無数の氷片が降り注ぎ、それがまた渦動に乗ってアベルの体を切り刻む。
「くっ、《金剛》」
溜まらず使用した《金剛》によって、アベルの全身を血の霧のようなものが覆う。
それに弾かれ、氷片はアベルの体に届くことなく消え去った。
しかし、血制もコフィンローゼスにまでは効果が及ばない。
『スーシャ、大丈夫か!?』
霧化ができれば、こんなことをしなくても良かった。
悔恨とともに念話を送る……が。
『ぐわんってきた やりおる』
『やりおるって、誰だよ。まあ、大丈夫そうなら、それでいいんだが』
スーシャは相変わらずだった。
実際、コフィンローゼスには傷ひとつついていない。
ローティアが親友を断念したというのも分かるし、それ以上に、スーシャが同行を申し出たのも理解できる状況だった。
『しかし、あの氷はどこから来たんだか』
相変わらず、床の存在は感じられるが、天井も壁も存在が感じられない。
当初は見えないだけかと思っていたが、次元やら時空が歪んでいるのか。これでは、奥にあるというエレメンタル・リアクターの位置も判然としない。
『とにかく前に進む。それだけだな』
アベルは《金剛》を解いて、歩みを再開する。
『心配しないでご主人様 この分だと一番酷いところがエレメンタル・リアクター』
『ワクワクしながら言うんじゃねえよ』
『じゅるり』
『よだれを拭けとも言っていない』
深刻にならずに済むのは、いいことなのかどうなのか。
だが、あの問題に関しては、ある意味で適任かもしれない。
砂礫が入り交じった熱風の渦動を、北風に苛まれる旅人のように進みながら、アベルは問うた。
『なあ、スーシャ』
『なに なんでも聞いてご主人様 マリーが初めてのおねだりでウルスラを作ってもらったけど最初全然言うこと聞いてもらえなかった話とかかなり鉄板ネタ』
『なんだよそれ、超興味あるんだけど』
後ろ髪が引かれまくって抜けてしまいそうだったが、アベルはなんとかこらえた。あとで、絶対に聞こうと堅く心には誓ったが。
『エルミアが、俺から血を吸われるのを嫌がったのどうしてだと思う?』
『スーシャに聞くとかご主人様かなり追い詰められてる』
『ぐはっ』
アベルは心の血を吐いた。
『エルミア奥様が拒否した理由は簡単』
『マジで?』
『怖くなっただけ』
本当に簡単すぎる答えに、アベルは思わず足を止める。
『そりゃ、血を吸われるんだから――』
『違う』
しかし、分かっていないと、スーシャに一言で切って捨てられた。
『クラリッサ奥様やルシェル奥様より不味かったら負けたらどうしようと心配して踏み出せなかった』
『…………』
奥様呼びは止めようなと注意することもできず、アベルは考え込む。
砂礫の混じった熱風の中、傷口が開いても一顧だにせず、アベルは考え込む。
立ち止まっていた足下に突然溶岩が流れても、無意識に跳躍して避けるだけで、アベルは考え込む。
そして、熱風の中、大きくため息をついた。
『気にする必要なんかないのにな』
『エルミア奥様もそれくらいわかってる』
『なら……』
『でも元妻のプライドが許さなかった』
『そういうものか』
『あと本当に非常時だから自分の血が原因でご主人様になにかあったらと思うと怖かった』
『それは、まあ、分からないでもないけど……』
『分からないでもないけどじゃダメ ちゃんと分かってあげないとダメダメダメダメダメダメ』
『ああ……』
『ダメって何回言った?』
いらっときて、思わずコフィンローゼスを地面に深く突き立ててしまった。
『ご主人様ありがとうございますありがとうございます』
『そういうときだけ敬語やめようや』
相変わらずのスーシャ。
けれど、今、このときだけは、それが役に立った。
「なんだッ!?」
下から上へ、すくい上げられるような衝撃。
アベルは、咄嗟にコフィンローゼスを通して訪れた急激な大きな力へ対抗し、なんとかその場に踏み止まった。
コフィンローゼスを地面に突き立ていなかったら、無様に吹き飛ばされていただろう。
「また氷か!?」
『ご主人様違う』
スーシャの言う通りだった。
熱風の渦の向こうに浮かぶシルエット。大きな足音とともに、露わになっていく。
それは、光と闇が入り交じった巨人。
無貌で四腕の巨体は純粋な光と闇に覆われ、まるで溶かした絵の具のように体の表面を流れていた。
その光と闇の巨人は、二対の腕に光と闇の剣を装備している。
先ほどの衝撃は、それが振るわれたものなのだろう。
「こんなモンスターが出るとか、聞いてないんだが……」
『単純な問題 ローティアがここまでたどり着けなかっただけ』
スーシャの言葉にもかかわらず真っ当で、恐らく正解。
「ま、やるしかねえか」
こんな非常識な場所だ。スーシャが真面目になることもあるのだろう。
その自分自身の思いつきに、アベルは牙をむき出しにして笑った。
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