足りているか、足りていないか。
どちらかと言えば、血は足りていた。
出発するときにクラリッサからもらっていたし、そもそも、血制で消費もしていない。
だから、エルミアから血を吸う必要はない……とはいえない。
命血を補充する余地は確かに存在しているし、この先困難があることは確定しているのだから、血はいくらでも必要だ。
この点では、エルミアの言う通り。
では、なぜアベルは戸惑っているのか。
「エルミア……。いいのか……?」
それが、元妻からの初めての誘いだったからだ。
「どうせなら、初めては花嫁になってから――」
「花嫁じゃないですよ。血の花嫁ですからね!」
姉に場を譲ったはずのルシェルが、間違えないでくださいと、外野から抗議。分かっているのかいないのか。クルィクも吼えて追随する。
そちらをちらりと見やったエルミアは、訂正しつつ続ける。
「初めては、血の花嫁になってからと思っていたのは事実だ」
「だったら――」
「だが、悔しいではないか」
そう言って、エルミアはアベルに抱きついた。
「おおふ? 一体、なにが始まるです!?」
ローティアの反応など気にせず、アベルの胸に顔を埋めながら、エルミアはぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「別に焦る必要はない」
「ああ」
「これが最後というわけでもない」
「それは約束する」
「私だけ仲間外れというわけではない」
「もちろんだ」
顔を上げたエルミアの笹穂型の耳は、真っ赤に色づいていた。
「だが、自分が抑えられなかったのだ」
血を吸って欲しいという願いと、断られるかも知れないという憂慮。
それがない交ぜになった瞳で、エルミアはアベルをじっと見つめる。
「だから、ルシェルではなく、私の血を吸って欲しい」
哀願。
「なんで、血を吸われるのを競っているです?」
「ふっ。驚いたか? 余も、この点だけはアベルを認めねばならぬ。この点だけはな」
「なんで、そこだけそこまで強調する必要があるのです?」
決して他人からは理解されないだろうが、エルミアは真剣だった。
それを無下にするほど、アベルは冷淡ではない。
「もう、了解は取らないぜ?」
エルミアを抱き寄せ、背伸びをさせ、アベルは首筋に顔を埋めた。牙が疼く。こうまでされて、我慢ができるはずがない。
男らしいアベルの強引さに、エルミアの胸が高鳴った。
これでも、元夫婦だ。
人目のあるところでではないが、今より大胆なことをしたことはある。当然だ。
だから、新鮮な驚きというわけではない。
熾火のように、炎は出ていなかった。そんな二人が、一気に燃え上がった。
例えるなら、そんな状態。
「アベル……」
名を呼ばれても、アベルは返事をしない。
先ほど了解を取らないと言ったとおり、アベルは疼く牙を伸ばして、エルミアの白いうなじへ突き立て――ようとした、寸前。
「……すまない、アベル」
当のエルミアから、拒絶された。
アベルの腕の中から身をよじって出ると、エルミアは自分でも信じられないという顔を浮かべている。
「……エル?」
「すまない。私のわがままだった。どの程度効果があるか分からない私の血よりも、ルシェルの血を吸ったほうが確実だろう」
「あ、はい? 私ですか?」
突然名前を呼ばれたルシェルは、驚きながらも、アベルへととっと足音を立てて近寄っていった。
「姉の代わりに妹を手込めにするなんて、義兄さんもやりますね!」
「いや、別にショックとか受けてないんで、気にしなくて大丈夫だぞ?」
確かに、ショックというわけではない。
吸血鬼の牙を忌避するのは、当然のこと。
むしろ、エルミアの急激な心境の変化のほうが心配だ。しかし、確かめるには時間が足りない。戻ってから、ちゃんと話し合う必要がある。
そのつもりはなかったが、これは絶対に死ねない。
改めて、そう決意しつつ、アベルはルシェルから血を吸った。
次元航行船は、内部まで黒かった。
「スティールツリーという、鉄の強度を持つ木で作られているですよ」
「その木の色が黒ってことか」
コフィンローゼスを担いだアベルが、ローティアの先導を受けて船内の通路を進んでいる。
船の中だというのに、エレメンタル・リアクターが暴走している様子は感じられない。変わっていることと言えば、斜めになっていて、上り坂のようになっている程度だ。
「今はまだ次元隔壁が働いているので、こっちに影響はないのですよ」
「よく分からないけど、館でクルィクと遊んでも、ファルヴァニアの家に影響が出ないようなものか」
つながってはいるが、閉ざされている。
その状況は理解したが、そんな備えがあるということは、エレメンタル・リアクターというマジックアイテムの危険度を示しているのではないか。
そんなことを考えていると、ローティアが止まった。両開きの、3メートル程度はある大きな扉の前で。
「この先が、エレメンタル・リアクターになります。アベルさん、準備はよろしいですか」
「ああ。大丈夫だ」
エルミアとルシェル。それに、マリーベルとクルィクは船の外。
ここにいるのは、ローティアとコフィンローゼス――スーシャだけ。そして、この先、一緒に行くのもスーシャだけだった。
当初、アベルはコフィンローゼスだけ持って行くつもりだった。
『それでは性能を完全に発揮できない ご主人様が危険』
『だからって、一緒に行って共倒れなんてしたら目も当てられねえだろ』
しかし、スーシャが反対した。
『違う 一緒に行って一緒に生き残る そのため』
真剣で真摯。
普段とは違う。というよりも初めてのスーシャに、アベルは折れた。
どちらにしろ、スーシャが自分で出てきてくれないと、どうしようもないのだ。
そして、表面上は普段通りのエルミアに、少しだけ心配そうなルシェル。いつも通りのマリーベルを残して、次元航行船に乗り込んだ。
寂しそうに遠吠えするクルィクに最も後ろ髪が引かれたのは、誰にも言えない秘密だ。
「アベルさん、よろしくお願いします」
「ああ。任せてくれ」
ローティアが大きな扉を開くが、その向こうには虹色の光が渦巻いているだけだった。
館に行くときの扉と同じで、アベルはむしろ安心する。
「アウェイク」
コフィンローゼスが起動し、茨の鎖がアベルの腕に絡みつく。
「エルミアたちをよろしくな」
そう言い残して、アベルは次元門に飛び込んだ。
軽い酩酊感。
その程度であれば、慣れっこだ。
即座に復活したアベルの目の前には、だだっ広い空間が広がっていた。床はあるようだが、天井も壁も見えない。
その空虚な空間に吹いているのは、砂礫の混じった、熱風の嵐。
扉の周辺だけは、安全が確保されているようで直接の影響は受けないが、轟音と熱は感じられる。
恐る恐る風へ手を伸ばすと、あっさりと指先が切れて血が舞った。事前に、ルシェルから呪文をかけてもらっているのに。
「やべえな、これ」
傷は浅い。一瞬で治った。もう、痛みもない。
しかし、これが続くかと思うと……。
『ご主人様すごい先が楽しみすぎ』
『……始めて、スーシャのこと尊敬しかけたぜ』
『それ結局尊敬してない ご主人様どういうこと』
アベルは説明しない。
説明しなくても、自明だからだ。
『ただ、頼りになるなとは思ったぜ。素直に』
『大いに頼ってご主人様』
コフィンローゼスを前面に押し立て、アベルは源素の渦動へと飛び出した。
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