男は上着の内ポケットの中に手を忍ばせ、“ある物”を取り出した。「ナイフ」だ。ナイフと言っても、そこまでゴツゴツしたものじゃない。バターナイフのように小さく、戦闘には不向きそうな華奢な作りをしている。手慣れた手つきでクルッとそれを回転させながら、ニコニコ笑みを浮かべた。ナイフの先端は丸み帯びていた。光沢感のある刀身は冷たく、細い。ピトッと、俺のおでこにそのナイフをあてがってきた。優しく皮膚の上を撫でながら、品定めするようにゆっくりと視線を預けてきて。
「キミの脳みその一部を、僕にくれない?」
…はい?
男の手つきは滑らかで、奇妙なほどに落ち着いている。突如発せられたその「提案」に、すんなりと頷くわけにもいかなかった。男の発したその「言葉」、——脳みそって言ったよな?今…。何度か頭の中で反芻していた。もし言っていることの意味が”そのまま“なら、承諾するわけがなかった。
「何言って…」
「安心して。何も全部ってわけじゃない」
「そう言う問題じゃねーだろ」
「もらった分はちゃんとお返しするし」
「…はぁ?」
「僕が欲しいのはあくまで“一部”だけだ。もらった一部の代わりに新しい細胞を移植する。キミの知能が低下することはないし、なんなら今より脳を活性化させることだってできるよ?本来だったら、それ相応の手術費を取るところだけど」
イカれてんのか?
脳の一部が欲しい?…って、どんな悪趣味だよ…。俺は今治療中なんだよな??安静にしてなきゃいけないってさっき言ってなかったか?言ってることが真逆なんだが…
「…本当に保安部の人間かよ」
「心外だなぁ。どっからどう見てもそうじゃないか。こう見えても優秀なんだよ?」
「本当に優秀な奴はそんなこと言わない」
「“中途半端に優秀な奴は”、ね?本当に優秀な奴は自分のことを理解している」
「何が言いたい?」
「主観的に見ても客観的に見ても、僕は優秀だって言うこと。わざわざ誤魔化す理由もないでしょ?」
…やべー奴だな
多分、ペルソナじゃない。それはなんとなくわかった。ペルソナには色んな種類がいるが、大抵はバケモノみたいな奴らで、知性のかけらもない。目の前の男が“執行課”の人間なら、それはそれで納得のいく部分もある。良い噂を耳にしたことがほとんどなかったからだ。平気で人間を殺すような奴らで、見境もあったもんじゃないって
「で、どうするの?」
「どうするもこーするも、ダメに決まってんだろ!」
「残念だなぁ。これから人助けをしようって言うのに」
「人助け…?」
「キミはこの少女を助けたくはないの?」
「…助ける?…助けるったって、どうやって…」
「キミは昨夜この少女といた。ふむ。あやめちゃんと言うんだね。本当に覚えてない?」
「…全然」
「今回目星をつけてるペルソナは、“精神系”のペルソナだ。人間の肉体を媒介し、自らの生命力を強化する。これ、コピーだけどあげるよ。保安部のリストの一部だ」
足元に落ちた一枚の紙。『Zoffy(ゾフィー)』。紙の一番上にそう書かれてあった。名前の下には切り抜きの写真が印刷されていた。写真に写っていたのは、どこにでもいそうな小さな体を持つ“蜘蛛”だった。
「ゾフィー?」
「コイツは何らかの目的で女性の体を乗っ取ってる。厄介なのは、親玉がまだ見つかっていないってことだ」
「親玉??」
「僕たちが発見しているのは、あくまで使い魔であるこの”子蜘蛛”たちだ。研究所で分析した結果、この蜘蛛たちを操ってる「親」がいると推測してる。子蜘蛛たちは人間の体の中に侵入し、全ての神経系を支配する。丁度蜘蛛の巣を、全身に張り巡らせるようにね?目的はわかってないが、多分自らの子供を産ませようとしてるんだと思う」
「ちょっと待て、話が見えてこないんだが…」
「キミは“養分”になったんだよ。「子供」を産ませるための」
「それと俺の脳みそになんの関係が…?」
「キミの「記憶」を拝借したい。そのために、脳の一部が必要なんだ」
俺の記憶…?
記憶って言っても、それがなんの役に立つって言うんだ?男が言うには、俺は子供を産ませるための養分になったそうだった。ストローで吸われた後のプラカップみたいに、中身がすっからかんになって干からびた。失った“組織”を戻すために、安静にしてなきゃいけないそうだった。
「キミがいつ、どこで、ゾフィーと接触したのかが知りたい。いちいちキミが考えなくても済むように、代わりに僕が、キミの頭の中を見ようって話」
「待て待てッ。そのためにわざわざ脳を!?」
「そうだよ?」
「もっと他に方法があんだろ!後遺症とか残ったらどうすんだよ」
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