男は心臓を俺の体の中に戻し、話を続けた。体に異変はなかった。少なくとも、異変らしい「異変」は。この奇妙な空間は男が作り出した空間だそうだが、胡散臭いことに変わりはなかった。“脳の一部を提供するかどうか”。話はまたそれに戻り、少女の顔が視線に入る。
獅童あやめ。
彼女のことはよく知らない。話したこともないし、目を合わせたことだって。そりゃ、助けられるもんなら助けてあげたい。彼女の身に何が起こったのか知らないが、何の罪もない人間を救いたいと思うのは、至って自然なことだ。“アンダーテイカーの候補者”といっても、か弱い女の子に違いはないんだ。”助けない“という理由がなかった。
「俺の脳を使って、どうやって助けんだよ」
「いい質問だね♪まあ、これは一種の賭けみたいなもんさ。今回のターゲットであるゾフィーは、人間の肉体を媒介して子蜘蛛たちの移動範囲を拡張している。あやめちゃんの体を乗っ取る前に、彼女に接近した人物がいる可能性があるんだ。例えば、彼女の友達とか、家族とか。「運び屋」と言った方がいいかな。ようは、子蜘蛛たちをばら撒いている「ブローカー」がいて、全国各地で暗躍してるってワケ」
「…それで?」
「キミの脳に保存された情報は、非常に貴重な資料になり得る。脳というのは、キミが思っている以上に“万能”なんだ。目に見えている情報だけが、脳の情報処理領域じゃあない。…おっと、またベラベラと喋っちゃいそうだから、この辺にしておくよ」
「彼女と、昨日会ってたって言ったよな?」
「そうだね」
「あんたどこまで知ってるんだ?」
「それはどういう意味かな?この事件のこと?それとも、キミの個人的なこと?」
「…場合によっては、どっちも」
「ふむ。実はキミが目覚める前に、ほんの少しキミの記憶を覗かせてもらったんだ。もちろん、常識の範囲内で」
「…覗いた?じゃあ、わざわざ脳を取り出さなくたってよくないか??」
「いやいや、あくまで“覗いた”だけだよ。僕が今求めているのは、キミの脳みそ。取り出したキミの脳と僕の脳を融合するんだ。そうすることで、覗き見るとは比べ物にならないほどの情報を得ることができる。キミが昨日いつ、何をしていたか。顕微鏡で覗くみたいにね」
「怖…」
「悪用はしないと約束するよ。君のプライベートに興味はないし。あくまで今回の事件に関わること、それについてのみ利用させてくれたらと思ってる」
「拒否権はあんのか?」
「もちろん♪キミの意見は最大限に尊重する」
「…そのわりに随分楽しそうだが?」
「僕は人と対話する主義でね。自分の都合だけを押し付けたくないんだ。だってそうだろ?「言葉」は常に対等じゃなきゃ。力ずくで物事を解決したって、そこに「品位」はない。解決しようと思えばいくらでも方法はあるけれど、僕はキミの協力の元、この事件を解決したいんだ」
「…何で??」
「その方が美しいだろ?僕がいなければ、キミはもうこの世にはいない。この出会いを大事にしたいんだ。今日という「出来事」をね」
言ってることがよくわからないが、男に敵意はないことは感じられた。少女を助ける。そのために脳の一部を提供する。何が正解かなんてわからなかった。鎖で縛られたこの状況で、抵抗する力さえなかった。心のどこかで、“どうでもいい”とさえ思えた。助けたって何になるんだ?俺には俺の人生があるし、「脳」の一部だぞ?後遺症はないって言うが、そもそもそういう問題でもない気がした。第一、提供したってそれが役に立つとは限らないんだろ?
「あ、そうそう。言い忘れたけど、キミがまともな思考ができているのは、この空間にいるからと思った方がいい」
「へ??」
「キミが接触したペルソナは、キミとも直接接触してる。ゾフィーはただのペルソナじゃない。危険度はBか、それ以上だ。ヤツはキミの心に侵入し、キミの精神を崩壊させた。肉体を破壊する前に、まずは精神からってね。ゾフィーはキミに幻覚を見せたんだ。キミを“壊す”ための幻覚を。その幻覚は実際の出来事に通じるほどの質感と刺激を神経系に与えていた。キミの精神を攻撃し、内側から操ったんだ。負の感情は、ペルソナたちにとっての“養分”だからね」
「…どんな、幻覚を?」
「それについては思い出さない方がいい。それでも、思ったより深いダメージだったみたいだね。キミの脳の一部をもらうと言ったのは、キミを助けるためでもあるんだ」
「俺を…?」
「キミのこの1年間の記憶を消去する。良いことも、悪いことも全部ね。それと、キミにとって都合の悪い感情も削除してあげよう。ここだけの話、「復讐」とか、そんなつまらない理由でアンダーテイカーは目指さない方がいい。いつか限界が来ると思うよ。本当に優秀なアンダーテイカーになろうとするんだったら、だけど」
ほくそ笑む男の表情はどこまでも軽快で、隙がなかった。脳を提供することで、この1年間の記憶を失う。そんな代償を払いたくはなかった。今は記憶が混同してるが、この1年間であったことは、俺の人生で大事な時間だった。それは、思い出すまでもなかった。アンダーテイカーとしての知識、技、能力、——そして何より、クラスの友達や、サヤのことが。
…あれ?
「どうかしたの?」
「アイツの顔が思い出せないんだ…。いつも一緒にいたんだ。俺の、俺にとっての…」
「キミにとっての?」
「大事な人…」
…なんで、思い出せない?
ずっと近くにいた。いつも隣にいた。出会ってまだ一年だけど、彼女から色々教わったんだ。戦い方や、日々の過ごし方。何より、初めてできた“友達“だった。高校に入ってから、閉じていた心に光が差したんだ。少しずつ、何気ない日常を過ごしていく中で——
「うわああああああああああああッ——」
突然の頭痛。激しい痛みが、全身を襲った。彼女の顔を思い出そうとすると、ナイフで切り裂かれるような鋭い感触が、頭の中を駆け巡った。わけがわからなかった。
「このままキミを外に出すこともできるけど、多分キミは、立ち直れなくなるんじゃないかな?」
「………ハアッハアッ………………なに…言って……」
「どうするの?提供する?しない?」
手首から血が滴り落ちてくる。苦しみのあまり頭を掻きむしりたくなって、暴れまくった。そのせいで手首の拘束具が皮膚に食い込み、肉が千切れた。痛みで気を失いそうだった。
サヤ
…サヤ
思い出しちゃいけないことが、頭の中にある気がした。サヤの名前を頭の中で呼び起こすたび、ぐちゃぐちゃになる景色があった。昨日のこと、——一昨日のこと。継ぎはぎの時間や映像が割れたガラスのように飛び散って、頭の中を駆け巡る。灼けつくような熱さがこびりついたように離れない。彼女の瞳、笑顔、——それから…
「人間の心は、僕たちが思っている以上に繊細で、脆い。放射線物質を大量に浴びた人間の体は最終的にどうなると思う?細胞の内部にまで損傷が及び、ひどい時は人間の形さえ留めない。DNAを傷つけ、修復不可能な状態にまで陥るんだ。ゾフィーはキミの精神を破壊した。直接神経に働きかけ、より高度なダメージを与えたのだろう。“完璧な養分”へと熟成させるために」
「……ゼー…ゼー……」
「修復するには記憶を消し去るしかない。“物理的に”なかったことにするんだ。それとも、自力でなんとかする?」
男が何か言っている。苦しみでどうにかなりそうだった。思い出しちゃいけないことがある。口に出しちゃいけない言葉がある。それが何かははっきりわからなかった。噴き出る汗がボタボタと床に落ちて、痙攣のような震えが、下から這い上がってくる。その時、俺は幻覚を見た。…いや、それが幻覚であるかどうかは、正直わからなかった。床には隙間もないほどに覆い尽くされた蜘蛛がいた。黒く、野球ボールくらいの大きさの蜘蛛たちが、波のように押し寄せてきていた。
「うわああああああああ」
近づくなッ
離れろッ!!!!!!!
足元から這い上がってくる。両足にはもうすでに皮膚が見えないほどの数が、列になって登ってきていた。このままじゃ殺られる…、このままじゃ——
「おい、あんた、なんとかしてくれよ!!!!」
「それは合意したという認識でいいのかな?」
「なに悠長なこと言ってんだ?!見てわかるだろ??今すぐ何とかしないと、俺の体がッ」
「大事なことなんだ。承諾もなしにキミの体の一部をもらいたくはない」
「わかった、わかったからッ!早く何とかしてくれ!!!!!」
「そうかい♪じゃあこの契約書にサインして?後からギャーギャー言われるのはめんどくさくてね。じゃ、鎖を外してあげる」
ガチャンッ
錠が外れて、俺は無我夢中で差し出された紙とペンを手に持ってた。近づいてくる蜘蛛を追い払いながら、急いで壁に紙を押し付ける。
「ほらッ、これでいいんだろ!??」
「上出来だ。それじゃ、手術を始める前に伝えておくことがあるんだけど」
「何だよ!!?」
「手術後、もし困ったことがあったら都内の保安部を訪れるといい。この会話を思い出すことはないだろうけど、「僕の存在」は、キミの脳の中に植え付けておく。おそらく、自然と導かれるはずだ。その時にまたお茶でも飲もう。この件以外で、キミに少し興味があってね」
「どうでもいいから、早く何とか……!」
「はいはい。わかったよ」
それからどうなったのかは、よくわかっていない。迫り来る蜘蛛たちを振りほどきながら、にこやかに近づいてくる男の姿があった。沸き立つような全身の痛みと、静まる気配もないノイズと。俺の身になにが起こっているのか、振り返れるだけの余裕もなかった。急いで何とかしなきゃいけないと思った。俺の中で、何かが壊れていく感覚が、時間を追うごとに加速していって——
サヤ
最後に彼女の名前を思い出した時、俺は最初に出会った時のことを思い出していた。学校の図書館。本をよく嗜んでいた彼女が、ハシゴを使って“ある本”を探していた。1900年代にベストセラーになった古い小説。俺は本に興味はなかったけど、授業の一環で復習しておかなきゃいけなかった。ネットで調べることもできた。ただ、どうせなら直に触れてみようかなって思って。
彼女とは、その時に初めて知り合った。漢字に弱かった俺は、彼女に教わりながら本についてを学んだ。先客だったのに、本を渡してくれたんだ。申し訳ないと思って、一緒に見ないか?って誘ったら、すんなりオーケーしてくれてさ?
今頃、彼女はどうしてるだろうか。
元気にしてるだろうか。
もう一度、彼女に会うことはできるんだろうか——
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