夏が始まろうとしていた。
窓から吹き込む風がカーテンを揺らし、雨の気配が、街の喧騒の向こうで途切れがちに近づいてくる。
高校2年の教室。黒板の前に立つ少年を、クラス全員が静かに見つめていた。
「……日向坂爽介です。えっと……事故に遭って、記憶が少し抜けてます。でも、普通に生活する分には問題ないので、よろしくお願いします」
彼はそう言って頭を下げた。
——記憶が抜けてる。
その言葉が、教室の外にいたひとりの少女の胸を締めつける。城ヶ崎サヤは、廊下の上でぎゅっと手を握った。爽介は、1年前の記憶をすべて失っていた。それはつまり、「私と付き合っていたことも、全部忘れてしまった」ということだった。彼はもう、私のことを「恋人」としては見ていない。そんな現実を突きつけられたサヤは、ただ静かに息を呑んだ。
——でも、大丈夫。私は「彼女」だったことを隠すと決めたから。その瞬間、前に立つ爽介の視線が、偶然サヤのものとぶつかった。けれど彼の目には、「懐かしさ」も「愛しさ」もなかった。ただの「クラスメイト」を見るような、曇りのない瞳だった。
サヤはそっと目をそらし、心の中で呟いた。
——ねぇ、爽介。
私はどうしたらいい?
*
「記憶がなくなったって、どんな感じ?」
放課後、屋上に続く階段の踊り場で、サヤは爽介にそう問いかけた。爽介は柵にもたれかかりながら、少し考える。
「うーん……なんか、夢から覚めたみたいな気分かな。自分の体に、自分が馴染んでない感じがする」
「ふうん……」
「サヤとは、前から仲良かったの?」
爽介の何気ない問いに、サヤの胸がちくりと痛んだ。
「んー……どうだろうね?」
誤魔化すように笑いながら、サヤは柵の上に手を乗せる。1年前なら、こんなふうに並んでいるだけで、爽介はそっと私の手を握ってくれた。でも、今はただ、風が吹き抜けるだけだった。
「これから、また仲良くなれる?」
爽介の言葉に、サヤは驚いて彼を見た。
「……え?」
「だってさ、なんか不思議なんだよ。サヤと話してると、すごく落ち着くっていうか……懐かしい気がするんだよね」
「……」
それはきっと、消えてしまった「過去の記憶」が、心のどこかに残っているからだ。サヤはぐっと唇を噛み、ぎこちなく笑った。
「うん。また仲良くなろうね」
——“また”なんて、言えないけれど。
心の中でそっと呟いた。
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