「捜査には協力します。ご不明な点があれば、何でも尋ねてください」
そういって、僕はパソコンとスマホを捜査官に手渡した。どうせ押収されるに決まっているからだ。沢山の捜査官にびっくりした全力さんは家から飛び出してしまって、今じゃどこにいるかもわからない。
『さて、どうするかな……』
僕は心の中で独り言ちた。同じ家宅捜索でも、金融庁と警察で違うところが一つだけある。彼らには調査権限はあっても、逮捕権限がないのだ。彼らは何でも自由に持っていけるし、取り調べを拒否することも不可能だが、僕の身体を拘束することだけは出来ない。だけど僕は、あえて彼らに対し恭順の意思を示した。
逮捕状を取る検察官に、相場の知識はほとんどない。彼らは、証拠固めが済んだ金融庁の告発が済んでから初めて動く。その体制は今も変わってはないはずだ。つまり、今ここにいる連中は調査のプロではあっても、被疑者の逃亡には慣れていない。油断させれば、あの箱を持ったまま、逃げおおせるチャンスは絶対にあるはずだ。
よし、まずは落ち着こう。ガサを食らうのだって別に初めての事じゃない。いずれまた狙われることもあるかもしれないと思い、心構えもしていたはずだ。『片隅』のニュースで、まだ心は揺れていたが、僕は努めて冷静になって、捜査官にこう尋ねた。
「弁護士に連絡を取っても構わないですよね?」
「どうぞ。ですが、押収を拒否しようとしても無駄ですよ」
「わかってますよ」
それくらいの知識は僕にだってある。逃亡に失敗した時のために、全力さんの事を頼もうと思っただけだ。懇意にしている弁護士の稲見先生は非常な愛猫家で、『片隅』の裁判でもお世話になった。僕はともかく、猫の力にはなってくれるだろう。
僕は別荘の固定電話から先生の事務所に連絡を入れた。中の人たちも慣れたもので、「伊集院ですが……」と名乗るだけで、直ぐに先生につないでくれた。
簡単に事情を説明すると、先生は、「またですか?」と言って笑った。僕は苦笑しながら、「いや、ちょっと質の悪い買い物をしちゃいましてね」と答えた。全力さんの事を頼み、快諾される。それで切っても良かったのだが、やっぱり今の苦しみを、誰かに理解して貰いたかったのだろう。僕は『片隅に生きる人々』の話を先生に振ってみた。
「そうそう。先生、知ってます? K監督の映画、天皇陛下がご家族で見に来たらしいですよ。お褒めの言葉もいただいたって」
「昨日、ニュースで見ましたよ。伊集院さんも、ホトホト運のない人ですね」
「運というか、なんというか……」
これもまた箱の力だとして、こんなふうに人生が変わるとは、思ってもみなかった。
「もし逮捕されたら、保釈金でも立て替えて貰ったらどうですか? それくらいの貸しはあるでしょう」
「そうですね。証券口座は、おそらく凍結でしょうし」
「いま向こうは、懐もあったかいでしょうしね。あー、どっかに美味しい仕事が落ちてないかなー」
「すみませんね。しょっぱい仕事ばかりで……」
「早く復活して、顧問料を月三十万位は払ってくださいね。まあ全力さんのエサ代くらいは立て替えときますよ」
こんな会話をしばし続けた。何の解決にもなっていないが、気心の知れている相手とのくだらないやり取りは、心の安定にはとても大切なものだ。全力さん問題を解決した僕は、この苦境からどうやって逃れるべきかを、真剣に考え始めていた。
「すみません。ちょっとトイレへ」
調査官から許可を得て、トイレに向かった。ユキさんからの手紙を、もう一度しっかり読むためだ。下っ端が一人ついてきたが、流石に中までは入ってこない。
拝啓 伊集院アケミ様
この手紙を読んでいるという事は、無事に箱を受け取ったという事だと思います。突然で申し訳ありませんが、今すぐ、その場所から離れてください。行く先はどこでも構いません。遠ければ遠いほど良いです。
現在、貴方の身には危機が迫っています。しかし、今ならまだその危機を回避できますし、箱の力が貴方を助けてくれることでしょう。箱は既にその力を発揮していますので、開封する必要はありません。それは、最後の手段です。
何らかの事情で、貴方自身が拘束を受けそうになったり、第三者に箱を奪われそうになった時のみ、この箱を開封してください。幾ばくかの後悔と引き換えに、貴方の願いは叶えられることでしょう。少しばかり手違いがあり、栄光より先に挫折が迫る事態となりましたが、貴方ならきっと、この危機を切り抜けられると信じています。
繰り返しになりますが、箱の開封は最後の手段です。そうなることを、我々は望んではいません。
貴方の安全が確保されたと判断した時点で、必ずこちらからご連絡いたします。またお話しできる日を楽しみにしています。
ユキより。
僕は手紙を三回読み返し、今からでも逃げようと決めた。理由は2つ。
ひとつ目は、箱の所有権は、既に僕に移っているという事だ。ユキさんは、「手違いで先に挫折が迫る事態になった」と書いているだけで、僕がここで挫折するとは書いていない。箱の力が僕を守るとも述べている。
彼女は表になっていない、『片隅』のことまで知っていたのだ。ならば、僕の全力さんに対する気持ちだって当然知っているだろう。つまり、僕が一度別荘に戻る事は想定の範囲内のはずだ。
彼女は勿論、僕が手紙を読み次第、直ぐに出発することを望んでいたのだろう。だが、ガサの回避に失敗しても対処できるように、何らかの手段を講じているはずだ。おそらくはそれが、『箱の開封』なのだろう。つまり、今の状況は危機的ではあるけれども、致命的とまでは言えない。
ふたつ目は、箱がまだお上の手に落ちていない事だ。僕は箱を、そのまま車に置いてきた。ガレージはヤサから少し離れたところにあって、差押えの許可された場所には指定されていない。つまり、僕が任意で提出しない限り、あの箱が押収されることは絶対にないのだ。もしかしたら、あのガレージは認識すらされていないかもしれない。
だとすれば、無事に車に辿り着くことさえ出来れば、箱を持ったまま逃げ切れる可能性は十分にある。もしそれが叶わなくとも、僕には「箱の開封」という最後の手段が残されている。僕の身体を拘束する権利は彼らにはないのだから、一瞬、箱を開けるくらいのチャンスは、いくらなんでもあるだろう。
手紙には、『幾ばくかの後悔とともに、貴方の願いは叶えられる』と書いてあった。後悔の部分が少し気になるが、残された選択肢があるのにそれを放棄するのは、僕の主義ではない。相方を失った「あの事件」の時だって、僕は彼の心がぶっ壊れるまで必死に足掻いたのだ。もしここで諦めてしまったら、彼の犠牲が無駄になる。
今すぐやろう。僕はそう決めた。このまま時間が経って、奴らに箱を発見されたら、それこそ面倒なことになりかねない。見つかれば中身を問われるだろうし、「知らない」と答えれば、箱を開けざるを得ないだろう。中に何が入っているか分からない以上、現時点での開封は出来る限り避けたかった。もし中に違法なものが入っていれば、それこそ現行犯逮捕されかねないからだ。
トイレの窓を少し開けた。周囲は二十台近い車に取り囲まれているが、捜査官の大半は押収作業で忙しく、外部に人はほとんどいない。ガレージの存在が認識されていないのだとすれば、ドアの向こうにいる捜査官さえ撒けば、難なく車までたどり着けそうな気がする。
僕はトイレの水を流し、扉を開けると、見張りの男にこういった。
「サブのスマホを、車に忘れていたことを思い出しました。任意提出しますので、取りに行っても構いませんか?」
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