一般には全く知られてない話だが、師匠は確かに政治家の裏金の運用をしていた。中でも、田中派は一番のお得意様だったそうだ。僕がこの世界に入った頃には、角栄は既に故人であり、彼に反旗を翻した経世会の連中も力を失いつつあったが、師匠から彼との思い出話を何度も聞いたことがあった。
何故、仕手と政治家がつながるのかといえば、この国で合法的に選挙資金を稼ぐには、株が一番楽だったからだ。政治家とヤクザから金を集め、大相場の絵図を描き、彼らに金を戻すのが、僕の師匠である剣乃征大の仕事だった。
勿論、金を回すだけの政治家たちとは違って、実際に相場を作っている彼は、何度もお上からその身を狙われた。ガサを喰らうのは日常茶飯事で、小菅暮らしをしたことすらあったが、師匠に金を回してる政治家たちの支援と、堅気の金は使わないというポリシーのお陰で、結局一度も有罪にはならずに済んだ。
その全盛期を僕は知らない。師匠の昔話を聞くたびに、僕は何度も、「あと十年早く生まれていれば……」と思ったものだ。晩年の師匠は、表と裏の世界をつなぐフィクサーみたいなところがあって、角栄が脳梗塞で言葉を失った後も、田中派の復権のために私財を投じることを惜しまなかった。
角栄は自分の身は守れなかったが、約束通りに師匠の身は守った。もし箱の力が本物だとすれば、身内の大半に裏切られた彼が、後事を託して師匠に箱を譲ることだって、あり得ない話ではないだろう。
角栄は議員生活一年目にして、法務政務次官になり、三十三本もの法律を議員立法で通して、わずか五十四歳で首相に就任した男である。就任早々、彼は歴代の内閣が先送りにしてきた日中国交正常化を見事成し遂げ、ロッキード事件で自民党から身を引いてからも、目白の闇将軍として政界に影響力を及ぼし続けた。
そんな彼の奇跡のような業績と、その後の転落の陰に箱の力が作用していたとすれば、この話は俄然信ぴょう性を帯びてくる。だが、師匠がその箱を受け継いだという話は、僕にはどうも腑に落ちなかった。彼の晩年は、決して幸せとは言い難いものだったからだ。
政治資金規正法の改正で政党助成金が生まれ、合法的に国の金を流し込めるようになってから、政治家と仕手筋の共同作業は、ほとんどなくなった。用済みになった相場師たちは金融商品取引法の改正により駆逐され、株券の電子化がその流れに拍車をかけた。
誰が何の目的で株を集めてるか分からないからこそ、相場は思惑を生む。もし角栄が脳梗塞で言葉を失ってなかったら、こんなくだらない法律は間違いなく握りつぶしていただろう。
僕はそんな古い時代の相場師たちを知る、最後の世代だ。師匠は箱を受け継いだが、相場師の意地として、その力は使わなかった。そう考えれば、一応のつじつまは合う。
「何としてでも、この箱を手に入れよう」
僕がそう心に決めた時、リビングにある古時計の鐘がなった。時刻はちょうど午前零時を回ったところだった。箱の力が本物か否か――それはもう、僕の中では重要な議題ではなかった。もしこの箱が師匠の遺品であるならば、僕はそれを他人の手に渡すわけにはいかないのだ。
僕はメインの証券口座にログインし、資産残高のスクリーンショットを撮った。そして、そのスクショを連絡先のメールアドレスに添付し、手早く短文を打ち込む。
箱を購入したいと思います。成功報酬の一千万円も既に準備出来ています。つきましては、受け渡しの方法を教えてください。
数分後、すぐに返信が来た。
貴方がこの箱を持つにふさわしい人間であるか、簡単な審査をさせていただきます。つきましては、ご連絡先を今から十分以内に返信してください。これが最初の試験です。
『冷やかしはお断り』、という事なのだろう。時間制限をかけて慌てさせ、個人情報を抜く手口かも知れないとは思ったが、師匠の遺品の魅力には勝てなかった。
僕は携帯番号とこのヤサの住所を入力し、名を【伊集院アケミ】と記した。勿論偽名だが、僕にとってはそれなりに思い入れのある名前だ。普段からこの名を名乗っているし、もはや本名で呼ばれても自分の事だとは思えないくらい、馴染みの深い名前になってしまっている。
「さて、どうなるかな?」
コーヒーでも入れて少し落ち着こうかと思った瞬間、非通知で携帯が鳴った。どうやら売主は、僕に勝るとも劣らないくらいのせっかちな人間らしい。
「伊集院アケミさんの携帯でよろしいでしょうか?」
「はい、そうです」
声の主は、意外にも女性だった。もの静かだが、まだ十代といっても不思議じゃないくらいの若々しい声である。
「この度は、箱の購入申し込みをいただきまして、ありがとうございます。既にご存じかと思いますが、あれは色々といわく付きのものです。これからいくつかご質問をさせていただきますが、購入後のトラブルを避けるためですので、正直にお答えください」
「わかりました」
「お申し込みをされている方は他にもおられますが、私としては、貴方に所有していただきたいと思っています」
『私としては』という言葉に、僕は少しだけ苛だちを感じた。この人は審査を代行しているだけで、箱の持ち主ではないのかもしれない。
「では、始めさせていただきます」
「どうぞ」
「最初の質問ですが、伊集院アケミというのは、貴方の本名ではありませんね?」
「……」
僕は少し動揺した。確かに女性的な名前ではあるが、「本名ですか?」と問われることはあっても、「本名ではありませんね?」と問われる事は今まで一度もなかったからだ。
「はい、その通りです。しかし私は、仕事でもプライベートでも、常にその名前を名乗っています。本名を使うのは、役所と病院くらいです」
「郵便物は、この名前でも届きますか?」
「まったく、問題ありません」
「わかりました。では、それで結構です。貴方が、我々に対して誠実である限り、どんな名前を使おうが、我々は一切関知しません」
「ありがとうございます」
どうやら話の分かる女性のようだった。僕の本名を検索すれば、全く身に覚えのない昔話が幾らでも出てくる。彼女は箱の所有者ではないようだし、名乗らずに済むなら、それに越したことはないだろう。
「では、次の質問です。貴方が箱の所有者として相応しくない行動をとった場合、我々はいかなる手段を使っても箱を回収します。そのことを、ご了承いただけますか?」
「一千万をお支払いした後でも、箱を没収されることがあるということですか?」
「その通りです」
但し、僕があの箱の力を悪用しない限り、そういう事は絶対にないと彼女は断言した。
「悪用というと?」
「あの箱は、所有者に絶大な権力をもたらす箱です。ですが我々は、その権力を濫用することまで認めている訳ではありません」
「過去の所有者の中には、そういう行為をして身を持ち崩した人がいるということですね?」
「残念ながら、ゼロではありません」
『大いなる力を持つ者には、責任が伴う』という事が、言いたいのだろう。元より僕は、権力が欲しい訳ではない。
「一つ質問させていただきたいのですが、宜しいですか?」
「返答の確約は出来ませんが、どうぞ」
「得た権力を第三者に譲渡することは、箱の所有者として、『ふさわしくない行動』に当たりますか?」
「譲渡ですか……」と彼女はつぶやき、しばらく間を置いた後、こう続けた。
「箱の力は所有者のみに作用するものです。確約は出来ませんが、箱そのものの譲渡でなければ問題はないと思います」
「ならばこちらも問題はありません。正直に言って、余り責任を負う立場にはつきたくないのです」
「ところで何故、そんな質問を?」
「僕は昔、ゲーム会社を経営していましたが、まったくうまくいかなかったのでね」
「会社の事は存じております。それで、アニメ映画に出資しようと思ったんですよね?」
何故、彼女はその事を知っているんだろう? その話は事実だが、表には一切出てない話だ。それこそ、僕の周りの金の動きを洗っていた金融庁の人間くらいしか知らないはずなのに……。
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