「面白い話ですね」
ずっと黙って僕の話を聞いていたユキさんが、突然口を挟んだ。僕は、相場師としての道を歩み出したあの日から、急に現実に引き戻される。
「CCCキャピタルの階段を降りると、土佐波さんが車で迎えに来てくれてた。僕が自分の儲けだけでなく、金利まで取り返したことを聞くと、彼はふてえ奴だって笑ってたよ」
多分僕は、あの時既に、剣乃さんから認められたくて仕方なかったのだ。
「僕は剣乃さんに回収してきたお金をすべて渡して、その場で弟子入りを志願した。これから先の人生で、彼以上の大物に出会うことはないと確信していたからね」
「そこから、二人の師弟関係が始まったんですね?」
「うん。どうせ師匠が居なければ戻ってこなかった金だから、惜しくはなかった。そして、その判断は結局正しかったんだ」
「どういうことですか?」
「次の日から早速、彼の管理してる借名口座のいくつかが僕の受け持ちになった。つまり、土佐波さんがやっていたようなことを、僕もやるようになった訳さ」
「もの凄い出世ですね」
そういって、ユキさんは笑った。
「弟子入りから半年ほど経った頃には、僕名義の証券口座にも、億を超える現金が入ってた。勿論、勝手には使えないけど、彼の売買を忠実に実行するだけでも勉強になったよ。本物の相場師の売買タイミングを、直に学べるんだ。万巻の書を読むよりも、腕は上がるに決まってる」
その口座の中には多分、政治家たちの裏金も沢山あったのだろう。謎の符牒の書かれた手紙を永田町に届けたり、ヤクザのフロント企業に金を運んだりするのは、まだ顔の売れてない頃の僕の仕事の一つだった。
「当時、兜町には、K氏と呼ばれる大物仕手筋が二人居た。一人が加藤 暠。そして、もう一人が剣乃さんだ。個人の力を結集して相場を作った加藤さんとは違い、プロの金しか使わなかった師匠は世間的にはほぼ無名だった。だけど僕は、加藤さんに勝るとも劣らない相場師だったと思ってる」
「最後のフィクサーとまで呼ばれた人間ですしね」
「ああ、政界や裏社会にまで与えた影響を考えれば、師匠の方が圧倒的に格上だよ」
師匠には『田中派復権』という大義があった。親友の名誉を回復するために、相場で稼いだ銭を惜しみなくつぎ込んだのだ。加藤さんに、そのようなものはない。あったのは、大衆を魅了する驚異的なカリスマ性だけだ。それに彼は、時には身内すら嵌めて、自分の持ち玉を売り抜けた。そこが剣乃征大とは全然違う。
「貴方の百万円は、どうなったんですか?」
「その場で全部返してくれた。あれほど憧れた信用口座も、師匠の名を匂わすだけで簡単に作れるようになった。でもそれは、タダでくれた訳じゃなくて、種銭として廻してくれた金だったんだよね」
「というと?」
「腕を見せてみろという意味にとらえた僕は、その金を全力で廻して、あっという間に一千万以上にした。でもその後、法外な金利を取られたんだ。最初に言われた通り、出世払いは高くついた訳だね」
「学生の身分で、あまり金を持ちすぎちゃいけないと考えたのかもしれませんね」
「かもしれないね。まあ、今となっては笑い話さ。タダより怖いものはないって学べたしね」
僕はもう、これが試験であることを忘れ、ただひたすらに師匠の魅力を語ることに専念している自分に気づいた。
「師匠は昔気質の人だから、細かいことをいちいち説明したりはしない。その意図を探り、周囲の人たちにわかりやすく伝えるのが、弟子としての僕の仕事だったように思う」
「剣乃さんは貴方に、自分の意志を継いで欲しかったんじゃないでしょうか? 相場師としてではなく、一人の人間として」
「かもしれないね。何しろ、『相場師は家族を持っちゃいけない』っていうのが、口癖みたいな人だったから……」
僕は今もその教えを守っている。相場を張り続ける限り、僕が家族を持つことはないだろう。今も昔も、僕にとって親と言える存在は、剣乃征大ただ一人だ。
「弟子入りから一年ほど経った後、師匠は少しずつ、自分の昔話をしてくれるようになった。角栄との友情はその最たるものだ。多分、僕しか知らない昔話がたくさんある」
「貴方は、剣乃征大が、箱の力で成功したと思いますか?」
「思わないな。僕は彼の売買を見ているし、相場作りも手伝っているからね」
あの日の中野さんの言葉が真実だったことを、僕は随分後になってから知ることになる。もし彼が箱の力を使っていたとするなら、それは相場師としてではなく、フィクサーとしてだろう。その頃の僕は、『剣乃の忠犬』と揶揄されるほどの側近になっていた。
「師匠は存命の間、相場の世界だけでなく、政界や裏社会にも影響を及ぼし続けた。でも、その事実は誰も知らない。僕が語らなきゃ、彼は単なる悪党の一人として、古い相場師の記憶ともに消えるだろう。僕には、それが我慢ならないんだ」
「どうやら、結論が見えてきたようですね」
「うん。だからもし、僕が箱の所有者となって、何らかの力を持つことが出来るのだとしたら、僕はその力を、僕の大切な人たちを世に知らしめることに使いたいと思う。良い部分も、悪い部分も含めてね。それを出来るのは、きっと僕だけだと思うから」
「わかりました。今のその気持ちを、絶対に忘れないでくださいね」
電話口の向こうで、ユキさんが微かにほほ笑んだように感じた。おそらくは審査に合格したのだろう。僕の人生において重要な転機があったとすれば、一度目は、剣乃 征大という相場師に師事したことであり、二度目が、この試験に合格したことだと間違いなく言える。確かにこの箱は、僕の人生を変える箱だった。
「箱は明日にでも届けさせましょう。貴方の人生は、今この瞬間から変わり始めます。箱は必ず、貴方の力になるはずです。今日は、とても楽しい時間を過ごせました」
「それは、僕も同じです。ありがとう」
師匠との馴れ初めを誰かに話したのはこれが初めてだったなと、全てが終わってから僕は気づいた。
「ところで、アケミさん。実は私は、貴方の事を昔からよく知っています。箱の力を正しく使うなら、いつかお目にかかることもあるかもしれませんね」
彼女は確かにそういった。その言葉は、僕を驚愕させるに十分だった。
「他にご質問がなければ、これで……」
「あっ、いや待ってください」
聞きたいことはいくらでもある。ユキと名乗るこの少女は、何故昔から僕をよく知っているのか? 箱の力を正しく使うとは、どういうことか? だがそんなことを尋ねても、きっと彼女は答えてくれないだろう。彼女が僕の事をよく知っているように、僕も彼女の性格をよく知っている。確信に近い思いが、僕にはあった。まったく合理的ではないが、その時は確かにそう思ったのだ。
「師匠の死後、箱は一度、誰かに受け継がれたんじゃないのかい?」
とりあえず、僕はそう尋ねた。ここで持ち出しても不自然ではなく、ちゃんと答えを引き出せそうな問いは、これしか思いつかなかった。ユキさんは、ほんの少しだけ間を置いた後、こう答えた。
「ご推察の通り、箱の最後の所有者は、剣乃氏ではありません。箱は一度、彼の近しい人物に受け継がれました」
しかし、その次の所有者も直ぐに亡くなり、箱は彼らの手元に戻ってきたそうだが、その姓名については、関係者が存命のうちは話せないことになっているという。もし僕が剣乃征大の弟子でなければ、彼の名前を明かすこともなかったそうだ。
「しかし貴方は、あの箱の宿命を知る次の所有者です。剣乃征大の次に箱を受け継いだのは、貴方も良く知る『ある人物』でした。それだけは先にお伝えしておきます」
「ある人物……」
僕の知る人物で、既に存命でない人間とは一体誰だろう? 心当たりが多すぎて、直ぐには絞り込めなかった。この世界には、変死や行方不明者が数えきれないほどいるからだ。
箱を託すなら晩年の師匠に付き従い、その死を看取った僕でも、決しておかしくはなかったはずだ。どうして師匠は、そんな大事な品を、僕や土佐波さん以外の人間に託したのだろう?
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