僕は数分前に下ってきたばかりの山道を全速力で駆け上がりながら、今からやるべきことを考えていた。全力さんに死ぬほどエサを食わせて、居眠りしてる間に車に詰め込む。とりあえず、知り合いの車屋まで逃げて、そこで他人名義の車を調達しよう。その後の事は、それから考えればいい。
とりあえずは、そんなところだろう。僕はガレージの前にCR-Xを停め、小走りにヤサに向かった。飛び込むように中に入り、エサを大量に用意した後、全力さんを叩き起こした。
「全力さん、ご飯だよ! なんと今日は、ちゅーるもあります! 超お得です!!」
寝ぼけ眼だった全力さんは、ちゅーるという言葉を聞いた途端に目を覚まし、餌場にすっとんでいった。ここまでは予定通りだ。
持っていくものは最小限でいい。財布、スマホ、パソコン、それに、学生の時からずっと肌身離さず持っている『スティル・ライフ』のハードカバー。それだけで十分だ。布団や枕などの寝具や、下着やタオル等の最低限の日用品は元から車に積んである。後は全力さんが食い飽きて、ウトウトしだすのを待つだけだ。
ガツガツとエサを食う全力さんの後姿を眺めながら、僕はこれから自分の身に降りかかる不幸について考えてみた。持ち株の暴落、恨みを持つ者からの暴行、天変地異――可能性ならいくらだって考えられる。
ふと、普段はまったく見ないテレビをつけてみようと思った。僕の不幸に関与するような大事件が、何か起こってるかもしれないと思ったからだ。だが、持ち株に影響のありそうなニュースは何も出てなかった。
「杞憂か……」
そう独り言ちて、テレビの電源を落とそうとした瞬間、一本の何気ないニュースが僕の心を強烈に揺さぶった。それは、『もう一つの、片隅に』というアニメ映画の試写会に、天皇陛下がご家族で出席されたというニュースだった。
その映画を作ったK監督は陛下と並んで映画を鑑賞し、上映後、直接お褒めの言葉を賜っていた。普通の人にとっては何ともない、ほほえましいニュースだ。このニュースを見て、こんな陰鬱な気持ちになってるのは、この世界で僕だけだろう。
「よりによって、このタイミングかよ……」
僕は再び独りごちた。その映画は数年前に公開されて大ヒットした、『片隅に生きる人々』の完全バージョンだった。僕はその映画の絵コンテを、今でも大切に持っている。何故なら僕は、その映画のプロモーション・フィルムの制作資金を提供し、監督とロケハンに立ち会っていたからだ。
当時の僕は、このアニメの原作である『片隅に生きる人々』の映画化を熱望していた。それを実現すべく、宮崎駿の愛弟子だったK監督と共に会社を立ち上げ、役員として出資もしていたのだ。
「大損するかも知れないが、必ず胸を張れる仕事になるはずだ」
僕はそう思い、映画化の実現に向けて本気で頑張っていた。相場を辞め、堅気に戻るなら、間違いなくあれが最後のチャンスだった。だが会社設立から半年もしないうちに、僕は身内のしでかした不始末せいで、師匠の側近だった時にすら喰らわなかった強制捜査を喰らったのだった。
僕はロッキード事件で自民党を離れた角栄のように、会社から離れざるを得なくなった。そして数年後、僕のいなくなった映画は大当たりをとる。僕は、僕の存在など欠片もない『片隅』の大ヒットを、とても複雑な気持ちで眺めていた。
ただ金を失っただけならば、僕は自分の人生を儚んではいない。僕の師匠がそうであったように、お上に付け狙われる事は、相場師にとっては勲章でもあるからだ。だが、埋もれた名作を発掘し、身銭を切ってそれを支援したという名誉と、堅気の人たちを信じ共に働こうという熱意を、僕はあの事件のせいで完全に失ってしまった。それが悔しくてならなかった。
強制捜査をきっかけに、僕の傍にいた人たちは皆、離れていった。K監督に至っては、法廷で直接対決することになったのだ。僕には作家の才能を見抜く力はあっても、人間性を見抜く力はなかったのだなと、何度も悔し涙を流した。
最も助けてくれるだろうと思った人間に裏切られた僕に、勝ち目はなかった。裁判に負け、全ての財産を差し押さえられた僕は、伊集院と名前を変え、第二の人生を始めることになる。だが僕は、自身の復活を諦めた訳ではなかった。手のひらを返した人たちとは徹底的に距離を置く。それが僕の最後の意地だったのだ。
それでも僕は心のどこかで、僕を見限った連中の事を愛していた。もし逆の立場なら、自分だって同じことをしたかもしれない。だからいつか、『片隅に生きる人々』よりも素晴らしい作品を手掛け、「貴方のおかげで、ここまで来れました」と一言だけ言いに行こう。それが誰も傷つけることのない、前向きな【復讐】なのだと思って、これまでずっと頑張って来たのだ。
その後僕は、強力な文才を持つ相方を得る幸運に恵まれた。『DJ全力』という名で相場への復帰も果たし、もう一度、素晴らしい作品を生み出せるかもしれないと期待を抱いた。だがその夢も、僕らのファンと称する人間が引き起こした「ある事件」のせいで、無残に打ち砕かれることになる。僕は貴重な相方を失い、モノを作る手立てを再び失ってしまった。
二人で作ったDJ全力を、僕一人のものにするわけにはいかない。だから僕は、再び元の伊集院アケミに戻り、表舞台から姿を消したのだ。
数年前まで一緒に飯を食っていた監督が、陛下からお褒めの言葉を賜っていたその日に、僕は怪しい箱を掴んでしまって、明日の事すらどうなるかわからない。こんな理不尽があるものかと嘆いた瞬間、物凄く大きな音で玄関のドアが叩かれた。
「しまった」という気持ちが僕の心を支配した。やはり、テレビなんかつけずに直ぐに出発すべきだったのだ。外に待ち構えてる連中がどういう類の人たちか、僕にはおおよそ察しがついていた。
仕方なく扉を開けると、黒い服を着た人たちが玄関の前に立っていた。黒塗りの車が二十台近く、ヤサの周りを厳重に取り囲んでいる。
「伊集院アケミこと、一条君だね。裁判所から、捜索差押許可状が出ています。被疑事実は以下の通りです」
令状に書かれた言葉を金融庁の捜査官が読み上げていく。罪状は勿論、相場操縦だ。そこに挙げられている銘柄を触った覚えはあるが、なんで今更、あの相場に調査が入るのか分からなかった。
そもそも僕は、一度だって自分の事を仕手だと思ったことがない。何しろ僕は、剣乃征大の側近として、本物の仕手筋の片棒を担いでいた人間なのだ。何が大丈夫で何がアウトなのかは、僕の方がよっぽど知っている。ヘマなんてするはずがない。
だとすれば、答えは一つだ。第二の人生を歩みだしてから、僕は相方と、全力さんの飼い主である赤瀬川さんを除いては、損得でしか他人と付き合ってこなかった。つまり、僕から直接銘柄を聞いた誰かが、保身のために僕を売ったのだ。あの時のK監督と同じように……。
お上は常に自分たちの描いたシナリオ通りに罪を作る。「伊集院の指示でやったんだろう?」と言われれば、「そうです」と答える奴は、星の数ほどいるだろう。堅気なら猶更だ。
「今度は誰が、僕を売ったのかな?」
心の中でそう呟きながら、僕は頭を掻いた。
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