「次は~小田越~、小田越~」
間延びした運転手の声で、夢から覚めた。
あれから10年も経っているのに、未だにあの光景を、頬を撫でる熱を、人間が燃える匂いを、忘れられない。
「……はぁ」
一体いつまでこうして生きていかなくてはならないんだろう。悪いことなんて何もしていないのに。
あの日から、ずっと悪夢に囚われたまま生きてきた。ため息の一つも出ようというものだ。
「小田越~通過しま~す」
「……え?! あ、あのごめんなさい! 降ります!」
凛月の叫び声に、バスがガクンと急停止する。
「困りますよお客さーん。もう少し早く教えてくれないと」
「すみません! すみません!」
「次から気を付けてね。ここら辺バスの数少ないんだから、乗り過ごしたりしたら大変だよ」
「はい……」
中年らしくどっぷりと腹の出た運転手。その渋い顔から逃げ出すように、両手でスーツケースを持ち上げてバスのステップを駆け降りる。
「う、うわぁ!」
そして恥ずかしさのあまり最後のステップを踏み外した凛月は、マンガみたいに派手にバスから路上へ転げ落ちた。
「ちょっと大丈夫?!」
「……大丈夫、です……」
目も当てられない失態続きの自分に、顔を真っ赤にする凛月。
だというのに、さっきまで握りしめていたスーツケースはなぜか落下せず、凛月を嘲笑うかのように見下ろしていた。
「ははっ。慌ただしいね~お嬢さん。それにしても、そんなナリで山登りかい?」
バスから降りてきた運転手が、スーツケースを地面に降ろしながら凛月に手を貸してくれる。
「す、すみません……」
助け起こされた凛月の服装は、白のワンピースに桜色のカーディガン。そして、年齢よりも若干幼く見える顔面を隠すようにつばの広がった純白の帽子。
ほかに客がいないからか、運転手も気さくに話しかけてくる。
都会ではこんなことありえない。
これが田舎か……と、凛月は密かに驚いていた。
「えっと、あの、実はここに祖母の家があるみたいで」
「家……? ああ! あんた、もしかして月子さんのお孫さんか何かかい?」
「そ、そうです、けど」
正確には『どうやら孫らしい』が正解だが。
「なんだなんだ、それならそうと早く言ってくれよ~!」
急に親しげになった運転手に、一歩引いてしまう凛月。
昔から、人と話すのは得意じゃない。
「珍しい髪の色してるから、もしかしてと思ってたけどね。そうかそうか」
「……そうですか」
無自覚とはいえ、触れてほしくない部分にずかずかと入りこんでくるこの感じ。
正直、あまり好きではなかった。
転んだ拍子に頭からこぼれ落ちた帽子に肩まで伸びた髪をしまい込み、凛月は1秒でも早くこの場から離脱しようと試みる。
「えっと。それじゃあ、お世話になりました」
「あ、ちょっと待って待って」
だというのに、運転手が大声で凛月を引き留めた。
「な、なんでしょう」
あからさまに困惑する凛月を気にする風もなく、運転手は大きな声で喋り続ける。
「これ、時刻表」
「え?」
「買い出しとか、このバス使わないといけないからね」
「そ、そうなんですか」
「そうなのそうなの。ここら辺には気の利いたお店なんてありゃあしないのよ」
そう言いながら、運転手がぐるりとあたりを見回す。
凛月もそれにつられて視線を動かした。そんな凛月の目の前に広がるのは、夕焼けで真っ赤に染まった山、山、山。
確かに彼の言う通り、自然以外になにもない。
「そうみたい、ですね」
私にぴったりだ、と凛月は視線を巡らした。
「はっは。お嬢さん、ここに来るのは初めてだろう? 道なりに少し進んだところにロープウェイ乗り場があるから、詳しい話はそこのおばちゃんに聞きな」
「わかりました。あの、色々すみません」
「いいってことよ。じゃあ、気をつけてな。もう夕暮れ時だし。まあ、久遠家の人間なら問題ないとは思うが」
「……? は、はい。ありがとうございました」
久遠家の人間なら問題ない?
そんな意味深な言葉を残して、バスは行ってしまった。
少しずつ小さくなっていく緑色の車体を見送りながら数秒、凛月は首をひねる。
「まぁいいか。それよりも」
今は陽が落ちる前に目的地にたどり着くことを優先した方がいい。
こんな見知らぬ土地で真っ暗闇の中を歩くのは、ちょっと困る。
『伊吹山ロープウェイ乗り場はコチラ』
スーツケースをがらがらと引きずりながら、古びた看板の案内に従ってロープウェイ乗り場を目指す。
確かここのロープウェイは午後6時までの営業だったはず。
空いている手でスマホを見ると、今はまだ5時30分を過ぎたところ。かなり余裕がある。
そのまま5分ほど舗装された山道を進むと、眼前に『伊吹山ロープウェイ乗り場』と掲げられた木造の建物が見えてきた。
かすれた文字で『チケット売り場』と書かれた窓口には、50歳くらいのおばちゃんが暇そうに頬杖をついている。
「……あの、すみません」
凛月がそう声をかけると、人懐っこい笑顔で応対してくれた。
「おや。こんな時間に登るなんて、珍しいお客さんもいたもんだ!」
「え、あ……すみません……」
おばちゃんの勢いに押され、凛月は思わず縮こまってしまう。
「ばかだねえ、別に責めてるわけじゃないさ」
さっきの運転手に続いてこれまた恰幅の良いおばちゃんは、そんな凛月を笑い飛ばした。
「もうすぐ逢魔が時だからね」
「はぁ……?」
「おや。あんた、もしかして知らないのかい?」
キョトンとした顔の凛月に、おばちゃんはニヤニヤ顔でそう言った。
「この伊吹山はね、人喰い鬼が住むと言われてるのさ」
「……鬼、ですか」
あまりに突拍子もない話に、凛月は同じ言葉をそのまま繰り返すだけ。
「そう。ま、昔からの言い伝えってだけで、実際に見たやつなんか一人もいないけどね。所詮は噂話さ」
「はぁ」
「あんた、さっきからはぁ……しか言ってないけど」
「ご、ごめんなさい」
「だから、いちいち謝らなくてよろしい!」
「は、はい!」
思わずつられて大声になってしまった凛月に、おばちゃんはやれやれと肩をすくめる。
「ところであんた、随分派手な髪してるねえ」
「っ……」
さっきの運転手といい、初対面の人間が多いとどうしても上がってしまう話題。
いくら言われ慣れたことでも、心に全く波風が立たないわけではない。
「もしかしてだけど、月子さんの親戚かい?」
うつむく凛月の顔を覗き込みながら、先ほどと似たようなことを問われる。
また、だ。どうやらこの髪色は祖母と関係があるらしい。
「そうです。一応、孫……みたいです」
「一応?」
不思議そうにこちらを覗き込んでくるおばちゃんに、凛月は慌てて釈明する。
「いやあの、私も最近知ったばっかりでして……」
「へえ。ま、あの人もなかなかに変わった人だったし、そういうこともあるもんかね」
「そうなんですか」
「そうさぁ。ずっとこの山のどデカイお屋敷で暮らしててねえ。愛想は良かったが、どこか浮世離れした感じというか」
懐かしむように語るその口調から、凛月はこの人と祖母の関係をなんとなく察することができた。
きっと、仲が良かったのだろう。
「あんたとまったく同じ髪色だったせいかねえ」
やはりそうか。
祖母も自分と同じだったのか。
この、憎ったらしい髪。
「今からあの人のお屋敷に行くのかい?」
「あ、はい。今日から私が管理することになりまして」
「おやまあ! じゃああんたとは長い付き合いになりそうだ」
「そ、そうですよね。よろしくお願いします」
恐らく屋敷から繁華街に出るには、このロープウェイとバスを使わなければならないのだろう。
車があれば別かもしれないが、生憎と凛月は車も免許も持っていなかった。
「あいよ。こちらこそ。それで、あんた名前は?」
「久遠凛月です」
「あたしは長峰豊子だ。よろしくね」
「よ、よろしくおねがいします」
受付からたくましい腕が差し出される。
それを握った凛月の頼りない腕が、ぶんぶんと振り回された。
「あ、そうだ凛月ちゃん」
ロープウェイを降りてからの道のりと、久遠家の人間は運賃が必要ない旨を説明した豊子が、凛月に向かって座ったままその身を乗り出してきた。
「ひとつ、忠告だ」
こそこそと内緒話のように、凛月の耳元で囁く。
「最近ね、この山に送り犬が出るって噂なのさ」
「お、送り犬?」
「そう。夜に山道を歩いているとね、真っ黒な犬が後ろからぴぃったりとついてくるらしいんだよ」
「……へぇ」
こくこくと素直に頷く凛月。
「それでね、もし何かの拍子に転んじまうと、たちまちに食い殺されちまう」
「そ、そんな」
「でもねえ、もし転んじまったとしても、少し休憩をとっているふりをすれば見逃してくれるって、そういう妖怪さ」
「妖怪、ですか」
「この遠月市はね、河童やら座敷童やら天狗やら、いろぉんな妖怪があちこちに住んでいるのさ。外から来た人はみんな信じないけどねえ」
これまた突拍子もない話に、凛月ももはやなんと返せばいいのかわからず愛想笑いを浮かべるしかない。
「ははっ。ま、なんにせよ気を付けるこったね。久遠の御人といえども、ね」
──また『久遠』。
正直、鬼だの犬だの妖怪だの、そういった話に関して凛月は全く興味もなければ信じてもいない。
そんなことより、自分の家系はなにか特殊なのだろうか? ここに来てからその疑問が増すばかりだ。そういった話は両親や他の親せきから一度も聞かされたことがない。
だが、思い当たる節がないでもない。
この髪色だ。
日本人ならまずありえない、透き通るような、忌々しい水色。
何度黒染めしても次の日には戻ってしまう、魔訶不思議な髪。
この奇異な髪色のせいで、小さい頃から散々な目にあってきた。
「ご忠告、ありがとうございます」
「いいのいいの。月子さんには世話になったからね。そのお返しさ」
実は軽く聞き流しているだけの凛月に気づいているのかいないのか。そう言いながら、女性にしては大きな手で凛月の頭をぐりぐりと撫でまわしてくる。
「あ、あの長峰さん。私、もう今年で20歳なんですけど……」
「おんやまあ! 全然そうは見えないねえ! その立派な胸以外は! はっは!」
時間にして10分足らず。その間にあらゆるコンプレックスをいじられた凛月は、顔を真っ赤にして足早にロープウェイに乗り込むのだった。
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