巨大なL字型をした久遠屋敷の、ちょうど曲がり角の部分にある板張りの居間。
その中央に陣取る正方形の囲炉裏と、そこに並べられた炊き立ての白米に芳ばしい湯気を揺蕩わせた味噌汁。さらに彩を付け足すのは鮭のみそ焼きにだし巻き卵。そんなひと昔前の家庭を彷彿とさせる光景が繰り広げられている、いつも通りの久遠家の朝。
6人という大所帯に囲まれた食卓には、一日の始まりだというのになんとも気まずい沈黙が流れていた。
「佐助、お茶取って」
そんな重たい空気を気にする風もなく、スーツに身を包んだ美女が飄々と声をあげる。
クセのない臙脂色の髪を背中まで垂らし、シワひとつないVネックのシャツに明るいグレーのパンツスーツをキッチリ着こなしている。その出で立ちが、透き通った氷のように凛とした顔つきをさらに引き立てていた。
「ん」
そんな彼女に冷えた麦茶がなみなみ注がれたピッチャーを手渡すのは、隣に座る佐助と呼ばれたひょろひょろの若い男性。
よれよれのTシャツに短パン、もっと覇気があれば誰もが美しいと褒め称えるであろう顔面に深く刻まれた目もとのクマとボサボサの黒髪がその不健康さを増長させていて、隣の女性と不思議なコントラストを形成している。
「ありがと」
短く礼を言いながら空のグラスに注いだ麦茶を一気に飲み干すと、女性は底冷えしそうな視線を一組の主従に向けながら言った。
「あたしが帰ってくるまでに仲直りしときなさいよね」
やれやれと首を振りながら立ち上がり、カバンを引っ掴んで玄関である土間へと向かう。
「ガキの喧嘩なんて職場だけにしてほしいわ……まったく」
コンコンと子気味いいヒールの音とは対照的なその不機嫌さを隠そうともしない。
そう言いながら、ぴしゃんと引き戸を開けて出ていってしまった。
「すみません……」
誰に向けたものなのかも判然としない言葉が、ポツンと浮かび誰にも届かず儚く散っていく。
その髪と同じくらいに青ざめた凛月の困惑と罪悪感は、すでに頂点に達していた。
「華~、いい加減機嫌なおしてよ~」
居間からわずかに離れた一室。そこに置かれた最新型のステンレスキッチンで洗い物をしながら、凛月は今日何度目か分からない言葉を繰り返す。
身近な誰かの機嫌を損ねてしまったのなんて数年ぶりのことなので、こういう時にどうすればいいのか分からずあわあわと右往左往するくらいしかできない。
「別に。怒ってなんていません」
そんな情けない主人の隣で手際よく食器を拭いていく華の顔からは、仮面でも被ったのかと思ってしまうほどに表情というものが削げ落ちている。
いつもの感情豊かな彼女とは別人のような、あまりにも平坦な声と表情。ただその一方で、華の手に次々と握られる品の良い食器たちは全員、絶命の危機に瀕していた。
「あ、あの……そのコップ、ヒビが……」
「あらら。これは失礼」
それは先ほど出ていった女性が使っていたグラス。その表面に広がるのは、雪の結晶が程よくちりばめられた美しい冬模様。だがその景観をぶち壊すかのように、一筋の小さな亀裂が走っていた。
(ああ、また文さんに怒られちゃうよぉ……)
普段は優しい彼女だが、先ほどの様子からも勤め先の高校でなにか嫌なことがあったのかもしれない。昨夜も「これだから受験生の担任だけは嫌だったのに」と酒の勢いで愚痴をこぼしていたような気がする。
「はぁ……」
またひとつ、凛月の気が重くなる事案が増えたせいで思わず漏れ出てしまったため息。それが華のへそをさらに曲げてしまった。
「そんなにわたくしの手伝いがめんどくさいのでしたら、だぁい好きな風と遊んできてはいかがですか? その方がわたくしなんかといるよりも凛月様にとっては楽しいですよねえ」
「そ、そんなこと」
まるで茨のように棘だらけの華の口調が、脆弱な凛月の心をチクチクと苛んでいく。
そう。今朝のあの光景を目撃されてから、ずっとこの調子なのだ。
それこそ久遠屋敷に来たばかりの頃は、徐々に風と仲良くなっていく凛月を母親のようなあたたかい目で見守ってくれていた。だが、ここ最近の風との過剰なスキンシップ──今朝のような夜這いや凛月のヘンタイムーブ──に、いよいよ我慢の限界が訪れたのか。正直、華が何かを我慢していた素振りなんて微塵もなかったように思えるのだが、タイミング的にはそれが原因としか考えられない。
(たしかに、最近華とちゃんと話してなかった気がする)
どうやら、久遠家というのは妖の世界でよっぽど重要な位置にあるらしい。
ここ数日、色んな人……というより妖怪の面々がひっきりなしに凛月の元を訪れていた。遠いところだと九州から北海道まで、その地を統べるそこそこ偉い地位にいるという異形の妖怪と毎夜酒を酌み交わしていたのだ。
華はその準備に奔走し、凛月は慣れない酒と生来の人見知りに疲労を募らせる日々。そんなわけで、今日が久しぶりに何もない安息日……となるはずだったのだが。
「……ふん」
これである。
凛月の為に忙しなく働いてくれていた彼女を碌に労いもせず、主である自分だけが楽しそうにしていればなるほど、いくら華とはいえ機嫌を損ねるのも無理はない。
そんなお約束であり致命的な勘違いを抱えながらも、さてさてどうしたものかと過去の乏しい対人経験から必死に解決策を導き出そうと、凛月が明後日の方向に頭を巡らしていると。
「おぇぇ……」
遠くから、雲一つない爽やかな朝に大変似つかわしくない音声と水音が屋敷中に響き渡った。
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