どうやら、あのやけに古風な手紙はこの生吹と名乗る鬼が祖母に頼まれて出したものらしい。
生吹たち妖は月子の友人であり、久遠家および凛月の敵ではないという。そのあたりの細かい事情の説明は、また明日にでもということで落ち着いた。
「とりあえず、屋敷に上がる前にその小汚い格好をなんとかせねばなぁ」
「あ……」
苦笑いと共に、凛月の全身を舐めるように見る生吹。
凛月自身はとにかく必死で気にする余裕もなかったが、慣れない山道を走ったり、挙げ句の果てには盛大に転んだりしたせいで、その姿はあまりにもひどい有様だった。
「よっと」
小さな掛け声とともに生吹がぱちんと指を鳴らす。すると、突然凛月の身体がぼっと青白い炎に包まれた。
「うわぁ?!」
一瞬の出来事に目をぱちくりさせていると。
「うむ。これでよいじゃろう」
「へ? あ、あれ?」
凛月の身体に付いていた泥や葉っぱは、驚くほどきれいさっぱり消え去っていた。
「あ、えっと……あの、ありがとうございます」
一体どういう仕組みなのか。
妖怪というからには、やはり何か怪しい術でも使えるのだろうか。
そう首をひねりながらも、とりあえずお礼を言う凛月。段々と理解不能なものに対する感覚が麻痺してきているのかもしれない。
「うむ。子供なのにしっかり礼が言えてえらいな。最近の若者は礼儀を知らんらしいからのう。やれやれじゃ」
目の前の少女は、一体何歳なのだろう。
急に年寄りじみたことを言いだした生吹に、凛月は何とも恐れ知らずな質問をしそうになる。
だが、すんでのところで生吹の意味深な笑顔に口を封じられた。
「カカッ、良い子じゃ」
生吹のにんまりと曲がった口元から、きらりと光る牙が覗く。
凛月は冷や汗を垂らしながら愛想笑い……を作れていたかどうか、だいぶ怪しい。
「ま、とりあえず今宵はこれでお開きじゃな。華、この子を部屋に」
「はぁい! 喜んで!」
「う、うわあ?!」
生吹の一声で凛月の正面に突然女性が現れ、危うく腰を抜かしそうになる。
いや。
現れたというより、もっと正確に表現するならば。
糸を解いたかのように、さっきまで凛月の横に控えていた狼が、黒い振袖に真っ赤な袴をまとった絶世の美女になっていた。
振袖の袖口にはレースが施されていて、腰にはフリフリのエプロンを巻いている。
ぱっと見、和風なメイドさんのようだ。
背丈は凛月よりも頭半分ほど高いくらいだろうか。あまりに整った顔立ちが、遠くからやってくる祭りの炎によく映えていた。
「凛月様、先ほどは大変失礼を……。お怪我などはございませんか?」
そんな彼女が、身をかがめて凛月の全身を確かめるようにぺたぺたと触る。
「は、はい。大丈夫です、けど」
ぺたぺた。
「本当ですか? 転んだ時にその愛らしいお膝を擦りむいたりなどは?」
ぺたぺた。
「い、いえ。ちょっとぶつけちゃっただけで、今はもう痛くないので……」
ぺたぺた。ぺたぺたぺた。
「左様でございますか。それは一安心」
そう言いながらも、両目が血走っているように見えるのは気のせいだろうか。
なんだか鼻息も荒い気がする。
そして何より、一向に凛月の身体から手を離さないのには、何か理由があるのだろうか。
「あの、えっと……。本当に怪我はないですから」
「むむむ、そうですか。まあ凛月様がそうおっしゃるのなら」
困惑気味の凛月を見て、謎の和風メイドはそれはもう心の底から名残惜しそうに離れていった。
「ではでは、改めてわたくしも自己紹介をば」
こほん、と仕切りなおすように咳払い。
そして、華と呼ばれた女性は、エプロンの裾を持ち上げ凛月に向かってぺこりと頭を下げる。
その姿は、まるで長年貴族に仕えてきた本物のメイドのようだった。
ただし。
背まで流れる濡れ羽色の髪。その頭頂部に、ふさふさの狼の耳がなければ。袴から、もふもふの尻尾らしきものがにょきっと毛先を覗かせていなければ。
「お久しぶりでございます、凛月様。本日からあなた様の身の回りの全てを、それこそ頭のてっぺんから足先までお世話させていただきます、華と申します。どうぞ末永くよろしくお願いいたします」
「はい、こ、こちらこそ」
流暢にとんでもないことを口走っているような気もしたが、凛月にはそれよりも気になった言葉が。
「って、え? お久しぶり?」
「もしや、お、覚えておりませんか?」
「あの、さっきの山道が初対面では……?」
「そ、そんなぁ」
手を口元に添え、がっくりと膝をつきうなだれる華。
そんな昼ドラのようなオーバーリアクションの華をみて、生吹が呆れたように口を開いた。
「やれやれ……。こやつはな、おぬしがまだ幼子の時に助けた子犬の成れの果てじゃよ」
「こいぬ?」
「ちょっと生吹! わたくしが今からご説明をと!」
「だっておまえが話すとくそ長いんじゃもん。ぬしさまも疲れておるじゃろうし、今日のところは早よ寝かせてやれ」
「ぐ……そ、それもそうですね」
生吹の正論拳に、華は思わず後ずさってしまう。
「ええ~ごほんっ。それでは凛月様、お部屋へご案内いたしますね」
「あ、はい。よろしくおねがいします」
「……凛月様」
凛月を先導しようとしていた華が突然振り向き、じっと凛月の瞳を見つめてくる。
人の目を見て話すのが苦手な凛月でもすっと引きこまれてしまいそうになる漆黒の右瞳と、彼女が人間ではないことを証明するかのような濃紅の左瞳。
左右で瞳の色が違う。人間で言う虹彩異色症、オッドアイというやつだった。
「わたくしに敬語は必要ございません。華は凛月様にお仕えする身。いつでもどこでもご自由に、なんなりとお申し付けください」
「と、突然そんなこと言われても」
人と敬語なしで喋るのなんて久しぶり過ぎて、なんだか落ち着かない。
でも、彼女がそう望むなら。
「じゃ、じゃあ華さん……じゃなくて、華。これから、よろしく」
期待に輝く華の瞳から目を逸らし、顔をほんのり染めながら凛月はぼそぼそ呟く。
「はい……はい! 凛月様!」
「カカッ。華ぁ、嬉しそうじゃのう」
「ええ、それはもう♪」
生吹のからかいにも、白百合のように美しい満面の笑顔で華はこたえる。
「では、参りましょうか」
「う、うん。わわっ」
そう言うやいなや、華は凛月の手を取りずんずんと屋敷の奥へ引っ張っていってしまう。
どうやら、少しマイペースなところがあるらしい。
「ではな。良い夜を」
「あ、はい。その、おやすみなさい。生吹さん」
「うむ」
柔らかい笑みを浮かべながらそう言うと、自らを妖の長と名乗った少女は月のない夜空を見上げ、美味そうに酒をあおるのだった。
「あの、華?」
「はい、なんでございましょう」
「さっき生吹さんが言ってた子犬って、どういうこと?」
外観と同じく時代を感じる木造の廊下を華について歩きながら、凛月は訊ねる。
「ああ、その話ですか」
「うん、本当にごめんね。覚えてなくて」
「いえいえ、いいんですよ。凛月様にとっては取るに足らぬ思い出だったのでしょう」
「そ、そんなことは」
「くふっ。それだけ、凛月様は普段からお優しい方だったということです」
くすくすと笑いながら、華は人懐っこい笑みを浮かべる。それを見て、凛月は思わず俯いてしまう。
──いや、それこそ。そんなことは、ない。
踊るように軽やかに、凛月の先を進む華。
その後を、凛月は黙ってついていく。
「ささっ、こちらが凛月様のお部屋になります。急ごしらえですが、必要なものは一通り揃えてありますので、ご自由にお使いください」
「あ、うん。わかった、ありがとう」
「いえいえ。では、込み入った話はまた明日ということで。今夜はゆっくりお休みくださいませ、凛月様」
「うん、おやすみ。えっと……華」
「はい、凛月様♪」
凛月が名前を呼ぶたびに、ピンととがった華の耳はぴくぴくとせわしなく動き、しっぽはどこかに飛んでいってしまいそうな勢いでぶんぶんと左右に揺れる。
「あ、そうでした。あのあの、凛月様?」
「ん? なに?」
生吹のもとに戻るつもりだったのか、凛月に背を向けた華が思い出したようにくるりと半回転して向き直る。
「今後はわたくしの前で転んでしまっても、下手な演技は必要ございませんので。くふふっ」
もうこらえきれないと言うように、口元を袖で覆う華。
「え、それってどういう……。あ」
凛月の顔が、ぼんっと音を立てて真っ赤に染まった。
「も、もう!」
「きゃっ♪」
いたずらっ子のようにパーッと駆けていく華の背中。精一杯の恨みを視線に込めて、凛月はそれを見送った。
「まったくもう」
ぶつぶつと文句を言いながら、凛月はこれから自分の部屋となるらしい和室の戸を引く。
そこにはなぜか凛月が放り投げたはずのスーツケースと、なくしたはずのスマホに帽子。そして、新品らしき寝具一式が用意されていた。
『凛月様へ。誠に勝手ながら回収させていただきました。あなたの華より』
隅に置かれた簡素な丸机の上には、そんな手紙が。
「本当に気が利く……うんっと、人……? だなぁ。ちょっと性格はあれかもだけど」
苦笑いと共に寝支度を整えて、早々と布団にもぐる。
今日はもう色々とありすぎて疲労困憊。全身がだるくて仕方ない。
身体の汚れや汗もあの時生吹がまとめてキレイにしてくれたようなので、風呂は明日でいいだろう。
寝返りをうち、ふかふかの枕に頭を預ける。
すると、枕もとからふわふわと心地の良い花の香りが。
きっとこれも、華が仕込んでおいてくれたのだろう。
「なんだか、久しぶりにちゃんと眠れそう……」
この屋敷に辿り着いてまだ1時間と経っていないのに、なぜだか不思議と懐かしさを覚える。
まるで、記憶にない幼少期をここで過ごしたかのような。それを身体が覚えているかのような、不思議な錯覚。
あっという間に睡魔が迫ってきた頭で、どうしてだろうと考えてみる。
甘いまどろみの中でふと思いだしたのは、両親と妹がまだ生きていた頃の生家のぬくもり。におい。空気。そのあたたかさ。
そうして古ぼけたアルバムをゆっくりめくっているうちに、凛月は久方ぶりの安らぎの中へ落ちていった。
「あの子は?」
相変わらず、中庭では魑魅魍魎のどんちゃん騒ぎ。
そんな中でも不思議とよく通る声を、生吹は無造作に放る。
「すぐに眠ってしまわれました。やはり相当お疲れだったようですね……おかわいそうに」
部屋の外で凛月が寝入ったのをこっそりと確認した華は、よよよと悲痛な声をあげる。
「いや、疲れさせたの主におまえじゃけどな?」
生吹は隣に座ってきた華をジト目で見やる。
「はて? なんのことやら?」
本当に心当たりがないようで、むむむと真剣に考え込む華。
「相変わらず歪んでおるのう。おまえの愛は。カカカッ」
「え、そんなことはないと思いますが?」
「その自覚がないところが一番コワいんじゃよ………」
「はぁ……」
そんなやり取りを交わしながら、生吹は華のために酒をつぐ。
「まあよい。それがおまえの在り方じゃしな……おっとと、ほれ」
「あら、ありがとうございます」
「では、新しい久遠の当主様に乾杯するかの」
「ええ」
こん、と2つの浅皿のぶつかる音が心地よく響く。
「あら、おいしい」
「じゃろ! カルタに買ってこさせた貴重な地酒じゃからな!」
「あなた、またカルタさんをそんな風に使って……」
「本人がよいと言っておるのだからよいのじゃ」
「ほどほどにしてあげてくださいよ、まったく」
「はぁいはい」
そんなとりとめもない会話をしながら、新緑の季節が運んできた人間に、人喰い鬼は思いをはせる。
「ま、ひまつぶしになればそれでよい」
酒も、人間も。
深紫の鬼のつぶやきは誰に届くこともなく、ただ桔梗の香りに溶けていった。
──これから始まるのは、とある人間と妖たちの、ちょっぴり不気味で少し不思議な御伽噺。
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