――なぜあたしは、このタイミングで湯浴みをしているのか。
透き通った湯の下には無造作にくり抜かれた窪んだ地面が広がっている。
湯の上には赤と青の光がぽつりぽつりと浮かび、くるくるとあたしの周りを飛び回っていた。
空には太陽が昇り、エメラルドグリーンの空がどこまでも広がっている。
「さすが治癒師、なのかな……」
シャトラはちょうどよく水の溜まっていたこの場所を見つけ、精霊の力を借りて水を浄化しつつ温めて、温かな泉を作った。そしてそれを維持するために精霊たちをここに置いていったのだ。
『セナは動きっぱなしだし、だいぶ疲れた顔してるからそこで休んできなよ。見張りにデゼルを置いてくからさ。調査はウチとリオンちゃんとルネちゃんに任せて、ね? 手がかりがないなら誰がやっても一緒だろうしさ』
そう言ってシャトラは片目を瞑ってウインクをし、あたしを一人でここに放り出したのだ。
とはいえ――よく見ている、のだろう。
今のあたしは、身体の疲れに関しては少し休憩すれば勝手に薄れていってしまう。しかし、気持ちの疲れはそう簡単にはなくならないものらしい。もしかしなくても、顔に出ていたのだろう。
シャトラが眠れないことまで見抜いていたかはわからない。だが、眠らないと気持ちの疲れがどっと残ってしまうようだ。
不便なものだ、本当に。
「それにしても久しぶり。しっかりと浸かるの」
見える範囲には誰もいないが、デゼルの息遣いだけは聞こえているから安心してもいいのだろう。
しかし、デゼルにしてもシャトラにしても、あたしに気を遣いすぎじゃないだろうか。
「ま、確かに見られたくはないけどね。でも別に、みんなと入りたくないわけじゃないんだけどなあ」
湯の中に見える自分の肢体をじっと見つめる。
腕、脚、そしておそらくは背中にも色濃く残った傷跡や痣があるはずだ。心と身体、両方にたくさん傷を負っているのだから。
アールヴ随一の治癒師でも、時間の経ってしまった痕は消せないらしい。リオンも、そういう術はからきしなのだという。
二人は申し訳なさそうにしていたが、あたしは特段気にはしていない。
これがあたしなのだから。
それを受け入れられないなら、それはそれで仕方のないことだと今では理解もしている。
空へゆっくり視線を移しながら、長く息を吐き出していく。
そこでふと思い出したのは、冗談のような約束だ。
「おーい! デゼルー!」
ざばん、と立ち上がり、デゼルのいる方向へ向けて大きな声を出した。
しばらく反応がなかったが、やがて聞こえてきたのはため息と舌打ち。
「こっち来なよーっ」
「はぁっ? 行けるわけないだろっ!」
ヒヒンと嘶くようにデゼルが叫ぶ。明らかに狼狽しているような声色だった。
「そんなこと言わずにー! どうしても来ないならあたしが喚んじゃうからねー!」
――返事が途絶える。
もう一度湯に浸かり、本当に喚んでやろうかなと意気込んでいると、蹄の音が遠くから徐々に近づいてくるのが聞こえた。
「ったく……なんだってんだ」
「ふふ、来てくれたんだ。ありがと」
「喚ぶなんて言われたら、抵抗する方が無駄だってもんだろ」
デゼルは見るからに渋々といった様子だ。しかもそっぽをむいてしまっている。
「どうしたの?」
「あー……服を着るか、せめて隠してから呼べ」
「え? 一緒に入ろうと思って呼んだんだよ」
「はぁっ?」
「あたしこんなんだし、人間と動物だから気にならないと思ったんだけど? それに、洗うって約束したから……ここなら――今なら、それを果たせるかなって思って」
「本気だったのかアレ……チッ、しゃーねーなあ……」
ざぶざぶとゆっくりとした足取りでデゼルが湯の中に入ってきた。彼が入ってもまだ、泉のスペースにはゆとりがある。
――せっかくだからみんなで入りたかったな。
思いながらも、デゼルの腹部にべっとりとついたシャトラの血痕へと手を伸ばした。
「あたしのせいで、ごめんね。とっても綺麗な毛並みだったのに」
「そんなこと気にしてたのか。……お前が気にすることじゃない。走ってりゃ自然と汚れるし、上に乗った誰かが傷付けば汚れる、当然のことだろう」
デゼルは、よくよく見れば全身泥だらけだ。驚くべきは、純白の毛並と黄金の鬣が輝いているおかげか、気にしなければわからないということ。
あたしは湯を掬い上げながら少しずつ泥や血糊を落としていく。
うーん、さすがに手で全身くまなく洗うのは難しいなあ。
「泥は雨にでも当たれば自然と落ちる。洗いたいなら、そうだな。血の部分だけでいい」
「どうしてわかったの?」
「ん? 道具も使わず手だけで洗おうとしてるみたいだからな。……しっかし、シャトラにせっかく休めと言われたのに、それじゃあかえって疲れちまうだろう」
「いいんだよ。あたしがしたいんだから」
それに、問題は心の疲れなのだろうから。
ごしごしと力強く擦ると、湯に錆色が溶けていく。身体をぱしゃぱしゃと流してあげると、少し血痕が残ってしまうとはいえ随分と綺麗な毛色が現れてきた。
デゼルは、始終あたしを直視しないようにしているようだった。どういう意図からかはわからない。
そういえば、ツァイクーンは最初こそ一緒だったけどすぐに別々になったんだっけ。猫頭とはいえ彼は男だったから、そこは納得できるんだけど。
「デゼルはさ、あたしみたいな種族の違う相手の裸見て、何か思うところがあるの?」
「そういうわけでもないんだが……普段見ることのない姿を見るというのは、存外妙な気分でな」
「ふうん……よし、だいぶ落ちたかな」
「そうか。なら、上がるとするか」
そのまま本当に踵を返そうとしたデゼルの頭を抱き締めるようにして止める。
「なっなにしやがるっ」
「せっかくなんだから浸かっていきなよ」
あたしを引き離そうと頭を振り乱そうとするデゼル。それを必死に押さえつけていると、やがて彼は観念したように力を抜いた。
「……わかったから離せ」
「うん」
パッと離すと、デゼルはゆっくりと足を畳みながら湯に沈んだ。器用に頭だけを出している。
あたしはそのお腹のあたりにもたれかかってぐぐっと身体を伸ばし、ふうと息を吐き出した。
「気持ちがいいね」
「ああ、そうだな」
背中に感じる熱に話しかけると、相槌は左から聞こえてきた。
会話といえばそれだけで、あたしもデゼルも、やけに黙り込んで湯船に身を預けていた。
ゆったりとした時間が過ぎていく。
「こんな時間を過ごせるなんて、夢にも思ってなかったなあ」
「どうしたんだいきなり」
「ほら、あたしって今は一応追われる身だし。それに普段はいつも狩りをして、汚れたらどこかで水浴びをして。毎日それの繰り返し。――こんな温かいお湯に誰かと安心して浸かってることなんてなかったんだ」
「……そうか。セーランヘルにニルィク以外誰もいなさそうなのが救いだったな。それに奴も、普段は穏やかな性格のようだし」
へえ、と頷いてまた口を閉じる。
それからしばし逡巡して、ようやくあたしは彼女の話題をデゼルに切り出すことにした。
「あのさ、デゼル。エインヘルってどんな人だったのかな?」
「なんだ藪から棒に。……あー、そうだな。オレからしたら変な奴だったよ。融和の使徒ってやつで争いを極端に嫌がる奴でな。なんとか相手と対話で物事を進めようとする、本当に変わった奴だった。やろうと思えば、エインヘルなら制圧して従わせることもできたってのに」
エインヘルのことを語るデゼルの声色はどこか優しげで、大切な人を思い出すような色に満ちている気がした。
「融和の地については聞いたことがあるんだっけか」
「リオンのところで名前だけね」
「そうか。ならかいつまんで話そう。――融和の地ってのは、多種族共生を促すためにエインヘルが作った場所だ」
「多種族共生?」
「ああ。アンスールは知性ある種族を多く創造したが、そのどれもがその種族単体で機能するように設定してあってな。しかし、時折外への興味を強く示す者たちが現れる。その異端者たちに特別な可能性を見出したエインヘルが、受け入れ先として作ったんだ」
異端者という言葉に胸がズグリと痛む。
「多くの種の異端者たちを住まわせ、互いの文化や慣習、伝統を調和させ、融和を図る。エインヘルの精力的な働きによってそれはかくして成功したんだ。――その場に、オレはいなかったがな」
悔しそうな歯軋りの音。
デゼルはおそらく、エインヘルとそれを分かち合いたかったのだ。彼女の従者である彼は、彼なしでそれを成し遂げてしまったエインヘルを見て、酷い空虚感に苛まれてしまったのだろう。
左手を伸ばし、デゼルの頬を撫で、頭を撫でる。それを心地よさそうに彼は受け入れると、また口を開いた。
その顔に影が差すのを、あたしは見逃さなかった。
「――だがそれは、長くは続かなかったんだ。セナ、お前の祖たる人間たちの襲来によって、な」
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