夜が明けても、空を覆い尽くす分厚い雲のせいで街は闇に包まれたままだ。まるで時間が止まってしまったかのような錯覚に陥ってしまう。
低く唸る遠雷だけが、耳に届く音のすべてだった。
「……っしょっと」
肩に食い込む籠を背負い直し、最近通り慣れた森を突っ切っていく。
「あ、お兄ちゃん!」
スラムの入り口に二人の弟が立っていて、俺の姿を見つけると駆け寄ってくる。
こいつらは見張り役なのだ。
「よぉ。頑張ってるか」
「まぁ、何もすることはないけどね」
「いいことじゃねぇか。平和が一番だろ」
「まぁね」
弟妹の中で最年長組のこいつらは、さすがに他の弟妹と違い多少落ち着いた雰囲気を持っている。年齢は十四歳ということらしい。ロレッタの一つ下になる。
ロレッタが外に稼ぎに行っている間、スラムを守るのはこいつらの役目なのだ。
「あ~ぁ。俺も働きに出られればなぁ……」
俺を連れてスラムの中へと戻る道すがら、弟はそんな言葉を呟いた。
こいつらの外見はどこからどう見てもハムスターだ。
……まずは、スラム住民の立場を向上させないとこいつらに仕事は出来ないだろう。
仮に仕事にありつけても、長続きはしない。きっとどこかで摩擦が生じるはずだ。
「そうそう。その仕事を持ってきた。何人か手先の器用なヤツを用意してくれ」
肩に背負った籠を弟に渡す。
「これは?」
「網だ」
「網?」
「おっと、訂正。網と、宝物だ」
籠の中には、海藻が盛大に絡みついた海漁ギルドの網が入っている。
今回もワカメや昆布が大量に絡みついている。……どういう漁の仕方をすればこんなに海藻が絡みつくんだよ…………日本ではあっちこっちに生息しているようなものでもないんだがな。なんかもう、ワザと海藻掻き集めてんじゃねぇのか、ってくらいに海藻がわんさか絡みついているのだ。
こっちの世界は植物の成長が著しいのかもしれない。野菜は一年中いろんなのが採れるし。
落とし穴を避けて進み、スラムの中へと入っていく。
落とし穴ゾーンを超えると、あばら家が建ち並び、中から幼い弟妹たちがわらわらと姿を現してくる。
すごい数だ。
誰かがこいつらを養うなんてのは無理だ。
こいつら自身に仕事をしてもらわないと……
とりあえずは、網に絡まった海藻の外し方、網の補修の仕方、そして、回収した海藻の干し方をレクチャーしていく。
相変わらずの呑み込みの早さで、ハムっ子たちはそれらの技術を吸収していく。
なるほど。ウーマロが教育に熱を入れるのも頷ける。
こいつらは貪欲なのだ。仕事がしたいと、誰よりも思っているのだ。
……こんな仕事しか振ってやれないのが、申し訳なくなるほどに。
スラムを離れ、間もなく陽だまり亭へたどり着くというところで、ついに空が機嫌を損ねた。
大粒の雨が降り出したのだ。
叩きつけるような雨音が街をのみ込んでいく。
容赦なく俺を濡らす雨に、全力疾走を余儀なくされる。
あれこれ悩むのを一度やめ、ただ前を向いて走る。水たまりを蹴飛ばして、陽だまり亭の敷地へ駆け込むと、店の前に二台の屋台がひっそりと佇んでいた。
一瞬、ザワッと……心が毛羽立つのを感じた。
「……くそ」
目を逸らし、俺は陽だまり亭のドアを開ける。
「ジネットすまん、タオルを……」
「お帰りなさいませ、ご主人様」
そんな言葉で俺を迎えてくれたのは…………ナタリアだった。
しかも、……こいつは一体何考えてんだろうな…………ナタリアの着ている服の胸の部分にはこんな文字が躍っていた。
『 陽だまり亭・本店
安いっ! 美味いっ! 可愛いっ!
野菜炒め 20Rb~ !!
四十二区にて絶賛営業中!!
年中無休
来なきゃ損っ! 友人・家族を誘って是非お越しくださいっ!! 』
……何着てんだよ?
「……おや? 面白い顔を……おっと失礼、奇妙な顔をされていますね」
「言い直した方が失礼さ増量してんじゃねぇか!」
「私の挨拶は間違っていましたか?」
「挨拶以前に、なんかいろいろ間違ってるよ、お前は」
つかそもそも、なぜお前がここにいる?
「以前、お嬢様がこちらで貸していただいた服があったと思い出しまして。店長さんにお願いして少し貸していただいたのです」
「お前も着てみたくなったのかよ?」
「いえ……そういうことではなくて…………」
ナタリアの手が俺の肩をガシッと掴む。
白く細い指が、肩にめり込んでいく。……痛い痛い痛いっ!
「どう見ても男物ですよね、これは? そして、この店に男性はただ一人しかいませんよね? そう、あなたです」
「…………え、なに? 俺、なんか怒られてる?」
「あの時は、奇妙な文言に思考が止まってしまいましたが………………アナタノ服ヲオ嬢様ニ着サセタワケデスネ?」
「怖い怖い怖い! あん時はそうするしかなかったんだよ! エステラが風邪を引くよりかはマシだろうが!」
「その後、この服は返却されたわけですが………………嗅ギマシタヨネ?」
「嗅ぐかっ! どこの変態だ!」
「私は今さっき嗅ぎましたが!?」
「嗅いでんじゃねぇよ!」
「残念ながらお嬢様の香りはせず、あなたの匂いしかしませんでした…………軽く殺意を覚えました」
「勝手に覚えてんじゃねぇよ」
なんなんだ。一体何をしに来たんだ、こいつは?
さっくりと追い返してやろうかと思ったのだが……
「……こほっ、こほっ。…………失礼」
よく見ると、ナタリアはどこか気怠そうで、顔も少し赤かった。
「お前、もしかして風邪でも引いてんのか?」
「気のせいです」
「んじゃ、俺の服を着て興奮してるのか」
「風邪です。今朝から少し調子が悪いのです。人の尊厳を踏みにじるような言いがかりはつけないでください」
やはり風邪なのか。あと言い過ぎだから。俺でもたまには傷付くからな? そこだけは忘れるな。
「あ、ヤシロさん。ちょうどよかったです」
薬箱を持って、ジネットが厨房から出てくる。
「どのお薬をお渡しすればいいのか少し不安で……ヤシロさん、診てあげてくれますか?」
「おぉ、薬か」
「お嬢様がもらってこいと……心配いりませんと何度訴えても聞いていただけなくて」
陽だまり亭には、レジーナの置き薬が揃っている。
エステラはそれを知っているので、ナタリアを寄越したのだろう。
「雨に降られなかったか?」
「少しだけ。ですが、今日はこれを着て帰りますので大丈夫です」
「……それ、俺の服なんだけど?」
「大丈夫です。我慢できます」
「いや……お前の心情的な問題じゃなくて……まぁ、いいけどよ」
なんだか妙に気に入られてしまったようだ。
文字Tシャツとか作ったら売れるかもしれないな。
「もしかして、昨日助けてくれた時も具合悪かったのか?」
カマキリ男に絡まれ、俺は危うく刃を振るうところだった。
あの時、ナタリアが現れていなければ、俺は今この場所にはいないだろう。
あの時も、こいつは体調を崩していたのだろうか?
「そうですね…………多少は、というところでしょうか」
「全然分からなかったよ」
「普段の六分ほどの力しか出せませんでした」
「……お前はバケモノか?」
アレで六分って……こいつが100%の力を発揮したらどんなことになるのか、想像もしたくないな。
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