……最悪だ。
あり得ない。
……最悪だ…………
昨日から、同じ言葉ばかりが何度も何度も頭の中を回っている。
頭が重い。
目の前が真っ暗で、何も見えない。
何も聞こえない。
もう、このまま……あたし、なくなっちゃうかも……それでも、別にいいや、もう…………だって、もう、誰もあたしのことなんて…………
「おい、パウラ……大丈夫か?」
不意に、ノイズをかき分けるように声が聞こえて、顔を上げると、そこに心配そうな顔をしたヤシロがいた。
「…………あ、ヤシロ……」
ヤシロの顔を見た瞬間、もう、限界で……
「聞いたぞ。大変だったな」
「……あたし、もうお店やめる」
弱音が口から零れ落ちていた。
「おいおいおい! ちょっと待てよ!」
ヤシロが心配してくれて、優しくしてくれるから、余計に泣きたくなって、惨めになって、あたしなんかいなくなっちゃえばいいって、そんな風に思えて…………でも…………でも…………
やっぱり、どうしても諦めきれなくて。
あたし、お店が好き。
カンタルチカが好き。
カンタルチカを好きだって言ってくれていたお客さんたちが好き。
カンタルチカで働いている自分が好き。
だから、やっぱり、どうしても、なくしたくない……
なのに……
あたし……
「…………お客さんの信用……失っちゃった…………」
弱音がいっぱい口から零れていくけど、怖くて泣き言ばっかり言っちゃうけど……でも……
「なら、取り戻せばいい」
ヤシロは、それを受け止めてくれる。
逃げ出したくなる気持ちを、この場所につなぎとめてくれる。
「………………出来るの、そんなこと?」
「当たり前だろうが」
その言葉が、その声が、その優しい笑顔が心強くて――あたしはまた、ヤシロに縋っちゃった。
食材の高騰でカンタルチカが潰れかけた時に助けてくれたヤシロに。
お願い……
もう一度……助けて……、ヤシロ……っ!
「とにかく、今から、この瞬間から努力を始めてみようぜ! な!」
不思議だな。
ヤシロが言うと、やってみようって気になれる。
もう絶対無理だって思っていたことも、諦めるしかないって思っていたことも、もう一度頑張ってみようって思えちゃう。
真っ暗で何も見えなかったのに、ヤシロの顔だけは、はっきりと見える。
あたし、もう一度……頑張ってみる。
失った信用を取り戻せるのか、不安だけど、怖いけれど……ここで頑張らなきゃ、あたしはすべてを失ってしまう。そんな気がするから。
その後、ヤシロの口からもたらされたのはとっても過酷で、怖くて、逃げ出したくなるような提案だったけれど……
「本気で店を続けたいなら、絶対に逃げちゃダメだ! 今こそが踏ん張り時なんだ!」
ヤシロがそう言ってくれたから。
あたし……頑張る!
でも、やっぱりちょっと不安だから。
一人じゃきっと、また挫けちゃうから、ね、お願い。
「……助けて、くれない?」
ヤシロがいないと、きっと無理だから。
頼れるのはヤシロだけだから。
あたしに出来る精一杯の可愛い顔でおねだりをしてみた。
そしたら、ヤシロは驚いた顔をして、で、……笑ってくれた。
「しょうがねぇなぁ」みたいな、優しい顔で。
「…………卑怯者」
「それは、『パウラちゃん可愛い』って褒め言葉だよね?」
だから、素直に甘えられた。
すごいな、男の子って。
そばにいてくれるだけで、こんなに心が落ち着くんだ。
さっきまで、不安に押し潰されそうだったのに。
足が震えて、心が重たくて、とても立ち上がれなかったのに、今はなんとか立っていられる。
顔を上げて、前に進もうって思える。
すごいなぁ。
……みっともないところ、いっぱい見せちゃったのは、恥ずかしいけれど。でも、それもちゃんと受け止めてくれた。笑わないで、呆れないで、怒らないで、最後まで聞いてくれた。
だから、信じる。
きっともう、これ以上ないくらいにみっともない姿見せちゃったしね。今さらだよね。
うん。みっともなく足掻いてみる。
カンタルチカは、どんなことをしても守りたい場所だから。
悪かったところを見つけ出して、徹底的に改善する!
自分のミスをさらけ出して、ちゃんと反省して、もっと強くなる!
そんな意気込みで、ヤシロを厨房に案内した。
……本当は、怖くて心臓がバクバクなんだけれど。
「ここの厨房は初めてだな」
「部外者を入れたのはヤシロが初めてだよ」
そう考えると、なんだか緊張してきた。
ここって、あたしと父ちゃんと、母ちゃんしか入ったことがない、特別な場所なんだよね。
臨時で雇ったバイトだって絶対に入れなかった。
同業者で、同年代の男の子なんて論外もいいところ。
……ホント、ヤシロが初めて。
…………むむっ、なんだろう、緊張する。
悪いところを探さなきゃいけないのに。それとは違う、変な緊張を感じる。
「おっ、これがあのソーセージを作るスモーカーか」
スモーカーを見て、ヤシロが言う。
スモーカーは各お店で様々な工夫が施されている最重要機密。
なんだか、見られちゃいけない物を見られているようで落ち着かない。
「へぇ、ヒッコリーのチップを使ってるのか」
チップの香りを嗅いだだけで、ヤシロが言い当てちゃった。
なんで分かっちゃうの?
あたしだって、最近になってようやく父ちゃんに教えてもらったばかりなのに。
これは父ちゃんと母ちゃんが若いころに必死に研究して突き詰めた成果だからって。実の娘にもずっと秘匿にしてたことなのに、なんで分かっちゃうのよ、もう。
なんか、悔しい。
「よく分かるね。やっぱりヤシロを厨房に入れたのは間違いだったかな……」
「技術を盗みゃしねぇよ。つか、すでに知ってるし」
そんなことを言う。
ホント、ヤシロって何者なんだろう?
陽だまり亭で次々新しい料理を生み出してるって噂だし。
料理だけじゃなくて、水のろ過装置もヤシロの発案だって聞いたし。
もしウチの従業員だったら、新しいソーセージとか、考えてくれたかな?
父ちゃんと母ちゃんがやったみたいに、あたしと二人で、あぁでもない、こうでもないって試行錯誤してさ。
何日も徹夜して、フロアで寝ちゃったりして……ふふ、そんなのも、楽しそう。
「今度、違う木を使ってスモークしてみろよ。香りが変わると味がまったくの別物になるぞ」
「そうなの?」
ウチでは、チップの量や火の強さ、煙の量、スモークする時間まで全部事細かに決まっているから、ソーセージの味ってそういうところで決まるんだと思ってた。
「なんだ、試したことないのか?」
……むっ!
試させてもらえないんですぅ!
お前にはまだ早いとか言って。ソーセージだけはやらせてくれないんだよね。
他の料理はみんなマスターしたのにさ。
母ちゃんとの思い出だからって、独占しちゃってんだ、ウチの父ちゃん。
でも……もし、新しいチップで、新しいソーセージが作れたら……
あたしも一人前って認めもらえて、ソーセージ、作らせてもらえるかな?
「リンゴとかブナの木とか、結構いけるぞ」
「へぇ……今度やってみる。木こりギルドも来てくれたことだし……」
その時も、ヤシロにお願いしちゃおうかな。
父ちゃんと母ちゃんがやったみたいに。
そして、最高に美味しいソーセージが出来たら…………はっ!? ダメダメダメ!
そんなことしたら、あたし……ヤシロと結婚しちゃうじゃん。
ウチの父ちゃんは、最高のソーセージが出来た時に、母ちゃんにプロポーズしたって。
「この味と、お前を、一生守らせてくれ」って。
……そんなの、さすがにまだ、早いって! もう! もうもう!
「どした、パウラ?」
「どうもしないっ!」
「いや、尻尾が物凄いことになってるけど?」
「尻尾見ないで! エッチ!」
もう! 変なことを考えたせいで顔が熱い。
ヤシロは頼りになるけれど、まだ全然、そーゆーんじゃないし。
それに、まだ知り合って間もないし、お互いのことも知らないし。
そりゃ、他の男の子より頼りになるな~とか、優しいなぁ~とかは、思うけどさ。
でも……うん、まだ、そういうんじゃない、かな。
それに、ちょっと、エッチだしね。
それより、今は――
「……準備、出来たよ」
ハンバーグを作る。
いつもと同じやり方で。
悪いところを、見つけるために……はぁ、緊張する。
正直言うと、やりたくない。嫌だなって、思う。
でも……やる!
それから、ヤシロに厳しくチェックしてもらいながらあたしは一所懸命ハンバーグを作った。
丁寧に、教わった通りに。
「出来たよ、ハンバーグ」
いつも通りに作って、いつも通りに盛りつけまでした。
これが、カンタルチカのハンバーグ。
ヤシロの前に差し出すと、ヤシロがよだれを垂らした。
「……いただきます」
手を合わせてそんなことを言う。
いや、ちゃんと見ててくれた?
悪いところなかった?
その検証だよね!?
「ヤシロ、もしかして食べたかっただけなんじゃないでしょうね?」
「ちゃんと検証はしてるよ。ただ、すげぇ美味そうだからな」
う……、そんな期待した目で「美味そう」とか言われちゃうと……飲食店従業員としては、断りにくいじゃない。
もう、ズルいなぁ、ヤシロは。
「ふぅん…………ま、まぁ。そんなに食べたいんだったら特別に食べてもいいけど」
ほら、そうやって嬉しそうな顔をする!
そんな顔されたら、許しちゃうじゃない。
ちゃんと味わって食べてね。
……美味しいって、思ってくれるかな?
なんだろう、すごくドキドキする。
これって、従業員の緊張?
それとも、男の子に手料理を食べてもらう女子としてのドキドキ?
……うっ、黙ってるとなんか、余計緊張しちゃう。
「ど、どう? 美味しい?」
緊張を誤魔化すために尋ねてみると――
「美味い! これはヤバい!」
「ホントッ!? やったぁ!」
――思わず拳を握った。
嬉しい。
「美味い」の一言がこんなにも嬉しい。
ウチのご飯を食べた人が見せる、この笑顔が最高に好き。
そうなのよ。ウチの料理は美味しいんだよ!
ヤシロがカンタルチカの料理を認めてくれた。
それと同時に……
……あたしの手料理を、美味しいって言ってくれたん、だよね?
……あ、ヤバい。
嬉しいっ。
「なんなら、毎日食べに来てもいいよ」
ふぉぉおう!? なに言ってんのあたし!?
それはまだ早いでしょう!?
だって、それって、毎日……あの…………ぇぇええ!?
ごめん、今のやっぱなし!
……って、言おうと思ったら、ヤシロがアゴを押さえて唸った。
空気が変わる。
「しかし……別に問題があるようには見えなかったけどなぁ……」
ざわっと、胸がざわつく。
ヤシロの真剣な顔……
眉間のシワ……
あたしのこと、疑ってる?
失敗を隠すために、普段は適当にやってるくせに今だけちゃんとやったって、そういうズルいことしたって…………思われてる?
そう思ったら、なんだか泣きそうになってきた。
「ね、ねぇ…………」
ヤシロに、そんな風に思われたら……
ズルい女の子だなんて思われたら……
あたし……っ!
「あたし…………嘘、吐いてないよ……」
「……嘘?」
「自分の悪いところを隠すために、誤魔化したりとか嘘吐いたりとか、本当にしてないからね!」
そんなの絶対嫌だから全力で訴えた。
信じてほしくて。
軽蔑されたくなくて。
嫌われたく、なくて……
ヤシロに嫌われたら、あたし……これから、誰を頼ればいいのか……
「お前を疑うほど、俺は人を見る目が無い男じゃねぇよ」
それは、優しい声だった。
「お前がバカ正直な頑張り屋で、いつもまっすぐ前を向いて努力してるヤツだってことくらい、俺はお見通しなんだよ」
そして、それは優しい笑顔だった。
そっか。
ヤシロはあたしのこと、見ていてくれたんだ。
「……ヤシロ」
もう、迂闊だなぁ、ヤシロは。
そんなこと言ってさ……あたしが本気になったらどうするのよ。
あたし、結構単純なんだよ。
しっかり者ってよく言われるけどさ、本当はそんなに強くないし、意外と泣き虫だし……結構甘えん坊なんだから、ね。
「作業工程に問題はない。となれば、環境だな。少々時間はかかるが、厨房の中を徹底的に調べるぞ。虫が入ってこられそうな隙間とか、もしかしたらどこかの陰に巣でもあるかもしれん」
「うぇぇ……それを探すのイヤだなぁ……」
でも、今はまだ、もう少し対等な関係で。
せめて、あたしが一人前になって、もっともっと素敵な女性になれるまでは。
そうなったら、あたしの方がヤシロを惚れさせてやるんだから。覚悟してなさいよね。
それまでは、もう少し頼りにさせてね、ヤシロ。
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