夜八時になった。昼間は営業からの無理な要望を断ろうと努力したり(結局断れなかった)、派遣の女性が書いた雑な詳細設計書のレビュースケジュールを打ち合わせたりして、自分の仕事を進めることが出来なかった。
定時が過ぎて、派遣の女性……佐々木さんが帰ってからやっと自分の仕事が出来る。
「おーい、A社からのソースコード、誰か受け取ってー」
課長の声が響く。うるさい。自分で受け取ってください。こっちは忙しいんだ。
「おーい、誰か」
課長の声は止まない。自分で取得処理できるだろうに、なぜ自分でやらないんだ。
仕方ない。俺が受け取ってやるか。
「課長、俺が受け取ります。通常の処理で良いんですよね?」
「おお、大村くん、頼むぞー」
課長は、最近俺の部署に入ってきた人だ。基本的には穏やかな人なのだが、よく無理な仕事をふってくるのが玉にキズ……どころじゃない。最悪な人である。
「あ、そうだ、大村くん」
課長がこっちに歩いてきた。課長のデスクは二つ島向こう、窓際の端のデスクを二つ占領している。そんな向こうからこっちへ歩く暇があるなら自分でソースコードの取得処理をしてほしい。
「なんですか、課長」
課長は、俺の真後ろの空いているデスクの椅子にどっかりと座り、持っているペンを弄っている。仕方なく、俺は椅子ごと後ろを向く。
「今回のCプロジェクトの品質管理、任せたから」
「は……、ええっ⁉」
ちょっと待て、おっさん、今なんて言った?
「か、課長、待ってくださいよ。品質管理は毎回川崎くんの担当じゃないですか」
品質管理。それは大量の資料とにらめっこし、数字を足したり掛けたりして行う、気が遠くなるような作業である。川崎はよくやっていた、と思う。以前は俺がやっていた仕事なのだが、課長の采配により川崎に担当が移ったのだ。そんな作業をしている川崎を、俺は尊敬している。
「その川崎くんだけどねぇ」
課長が、俺のパソコンの画面を覗き込みながら言葉を紡ぐ。
「川崎くん、休職になっちゃった」
あちゃー、といった感じで額に手を当てながら、課長は続けた。
休職? 休職だって?
「えっ……。確かに最近休んでいましたけど、休職ですか?」
「うん、とりあえず三ヵ月。まぁ三ヵ月過ぎても戻ってくるかわからないけどね」
おいおい、ついに現れちゃったよ、休職するヤツ。あと、課長はドライ過ぎないか。
「だから、今後の品質管理も君にお願いするかも! 今回はその練習、ってことでお願いしたよ」
立ち上がって俺の手を握り、シェイクハンドしながらそう言う課長。目を合わせようとしてくるが、合わせたくない。
しかし、俺はその視線に負けた。課長の眼鏡が光った……ような気がする。
「……わかりました」
「よし! 頼んだよ!」
そう言うと、課長は自分のデスクに素早く戻っていった。そして、
「お疲れ様―」
課長はまだまだ人の残っている我らが部署を後にした。確かに管理職は残業代が出ないので、遅くまで残業してもうまみは無い。でも、ちょっとは空気を読んで残業してほしい。
「マジかよ……」
後に残された俺は、頭を両手で抱えて静かに絶望するしかなかった。
品質管理の仕事は、プログラムが弊社の規定の品質を保っているかチェックする、まぁまぁ大切な仕事だ。確かに、元は俺の仕事だった。だが、だが――。
「俺はもうそんな暇じゃないってのに……」
一つ一つは、決して難しい作業ではない。ただ、チェックしなければならない資料が膨大なのだ。細かい数字を、終わる兆し無く無限の如き量をチェックするのは、確かに苦痛だ。川崎が休職するのも、無理は無かったかもしれない。
「ごめんな、川崎……」
彼ひとりに、品質管理を押し付けてしまったのは間違いなく俺だ。いや、方針としては課長が決めたのだが、何かサポートをしてやればよかった。
これは、川崎に何のサポートもしなかった俺への罰かもしれない。俺にはそう受け取るしかなかった。
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