最初は微妙な気持ちだったものの、箱根細工の売却金が手に入ると、土佐波は『家なんか建ててる場合じゃねえな』と大喜びだったという。
「そんなに儲かったんですか?」
「ええ、何しろ総督から頂いた一年分の給金よりも、箱根細工の儲けの方が遥かに大きかったそうですからね」
「なるほど。その箱根細工が、物語の鍵になりそうですね」
「ご明察。まあそうこうしているうちに、破風造りの台湾館に什器が運び込まれて、博覧会が始まったのです」
館を建て終えた大工たちは、会期中は仕事がないため、呼び込みに精を出した。大金をせしめた土佐波は、一刻も早く日本に帰りたくて仕方なかったが、一人で海を渡る勇気もないので、仕方なくそれを手伝っていたそうである。
「彼らが威勢よく怒鳴っていると、どんどんお客がやって参ります。中には綺麗な女給たちが沢山待ち構えていて、お茶の講釈を聞きながら、色んな接待を受けられるという訳です」
その中には、ヴァルダさんの連れて行った、からゆきさんもいる。いわば、台湾館はライトな娼館でもあった訳だ。本当に茶を買い付けに来た業者や、政府の用人が現れた場合には、別室でヴァルダさんが対応していたそうである。
「ご機嫌になった客人は、必ずチップを置いて行きます。それらは全額女給の収入となりますので、からゆきさんたちは特に、積極的に励んだものですよ」
「下賜される給与とは別の、臨時収入という訳ですね」
「そうです。しかし、お客様全員が気前が良いという訳でもありません。五ドルも置いてゆく大物がいるかと思えば、数セントのユダヤ人も居るという訳で、やはり、あいつらは敵だと思わされたものです」
「なるほど」
そんな毎日を繰り返しているうちに、土佐波にも少しばかり英語がわかってくるようになった。呼び込みの大工たちが使う簡単な単語位なら、容易に理解できるようになったのである。
「例えばどんな言葉ですか?」
「水の事がワラ、船頭がナベゲータ。女性がレデーですから、男性はデレーかと思ったら、銭取る男。なるほどこれは理窟ですが、失礼したくもなりますね」
事務員さんはツボに入ってしまったのか、自分のネタで笑っていた。彼女は確かにヴァルダさんの何かだと思った。見た目は若いのに、感性がえらく古い。
「英語なら、ボクも知っとるでー!」
全力さんが足元で、ボクにもしゃべらせろとばかりにこちらを見た。
「全力さんは、どんなの言葉を知ってるの?」
「お早ようがグルモンや! こんばんはが、グルナイで、さようならが、グルバイ。どうしてアメリカ人は、こうグルグル云いたがるんやろうなあ」
「それ全部、挨拶だね」
「挨拶だけで十分や! それにアイツら、ちょっとアホやねん。男でも女でも、『タヌキ!』と云ってやるとめっさ喜ぶんよ。やっぱり、獣に近いんやろなー」
「なるほどね」
『ありがとう』は確かに、タヌキに聞こえないこともない。その『タヌキ!』もきっと、ヴァルダさんが教えたんだろうなと思った。
「そういえば、全力さんはタヌキに良く似ていますね」
「そうでしょうそうでしょう。実はこのお話は、そのアメリカ人のタヌキ野郎に、土佐波が嵌められたという話なのです」
「そうや! 悪智恵にかけちゃ、アイツら悪魔よりひどいんやで!」
全力さんは、タヌキ扱いされたことには気も留めずにそう叫んだ。
「一体、どんな嵌め込みだったんですか?」
「一言で言えば、ハニートラップです。勿論それは、台湾館の可愛いらしい接待とは比べ物になりません」
「色仕掛け?」
台湾館の中では、八人の娘が住み込みで働いて居た。歳は皆、十五か六ぐらいで、選り抜きの美少女ばかりだったそうだ。
「女好きの土佐波は飛び跳ねて喜びました。でも、結局それは、ぬか喜びに終わったんです」
「というと?」
「後藤様からあらかじめ、『女給たちに手を触れたら、そのままアメリカに置いてゆく』という、きつい言い渡しがあったそうで……」
「なるほど……」
彼女たちは、お偉方の接待に必要な商品だ。大枚払って連れて来たからゆきさんたちを、大工ごときに弄ばれては困るという事だろう。事務員さんは普通の語り口に戻っていたが、僕はそのまま気づかないふりをした。下手に指摘して、またおひねりを請求されたらたまらない。
「それだけじゃないのです。彼らは会期中、『博覧会場から、決して出てはならぬ』と厳命されていました」
「外で変な遊びをして、病気でも貰ってきたら困るから?」
「それもあるでしょう。しかし、もっと大きいのは治安の問題です。当時のセントルイスは、ギャングの巣窟みたいな街でした。強盗や人浚いは日常茶飯事なのです」
「なんだか、『仁義なき戦い』みたいですね」
「ええ。彼らは皆、気の弱い奴と見たらピストルで脅かして、強盗や密輸入の手先にしようとするんですよ」
「たった一度の出来心で、命を落とすから気を附けなさい。一度狙われたら、二度と日本に帰れないわよ」
土佐波はヴァルダさんから、毎日そうおどかされていたそうだ。
「仕方なく土佐波は、指を咥えてジッと女給さんたちを眺めていました。ホームシックも相まって、悶々とした毎日を送っていたそうです」
「大金を持ってても、使えなきゃ意味がないですからね」
そこに、ハニトラを仕掛ける余地があったということだろう。女給たちの媚態を毎日のように見せ付けられながら、指一本も触れられないとなれば、頭だっておかしくなるはずだ。
「開会からひと月ほど経ったある日のこと、女給たちの中でも一等捌ける、二人の姉妹が病気で倒れてしまいました」
「それは大変だ。それでどうしたんですか?」
「地場の周旋屋に手配して、近くの支那料理屋で働いていた女給を二人、譲り受けることになりました。何しろ、たった一人が欠けても国家的な損失ですからね」
台湾館は外貨稼ぎが目的だ。そして、女給の数に余裕がないからこそ、後藤は大工たちに手出し無用を厳命をしていたのである。しかし土佐波は、このトラブルを内心喜んでいたという。
「何故ですか?」
「だって、そうでしょう? 今まで居た女給さん達には手を出せませんが、新しく来た現地の女性なら、お咎めを受ける謂れはないじゃないですか」
「理屈としてはそうですけど、そんなことしたら、ヴァルダさんが怒りませんか?」
「怒りませんよ。何故なら彼女は、その二人を呼んでくるのに必要な金を、土佐波にも出させたからです」
「なるほど。流石はヴァルダさんだ。土佐波は箱根細工で稼いだ大金を持て余していましたからね」
何か問題が起こったとしても、支那料理屋のオーナーに金を握らせればいい。ヴァルダさんはそう考えたそうだ。
「新しく来た二人の少女は、とても対照的な性格をしていました。一人は黒髪の天草女で物静かな千代子。そしてもう一人が、赤髪の混血児で活動的な悦子です。二人はそれぞれ、ちーちゃんとえっちゃんと呼ばれておりました」
「ちーちゃんとえっちゃん……」
不思議な親しみを感じる名前だった。倒れた女給の代役に立てられたこの二人の女性が、今回の物語のヒロインとなるのだが、この時の僕は、そんなこと知る由もない。
「真面目な印象を持って貰おうと、土佐波は呼び込みの仕事を頑張って居りました。すると、予想外の事が起こったのです」
「予想外?」
「ええ。土佐波がまだ口説きもしないのに、えっちゃんの方が彼に向かって色目を使い初めたんです」
「彼の持ってる、箱根細工の売上に目を付けたんですかね?」
「私もそう思ったんですが、違いました。二人の目的は、最初から土佐波を外に連れ出す事だったのです。そして、この状況の変化は、皆にとって理想的な展開でした」
そういって、事務員さんは不敵に笑った。長々と続いたこの話も、ようやく先に進みそうだ。
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