最初に土佐波が興味を持ったのは、同郷で物静かな千代子の方だった。彼女はまだ十七か八の少女で、台湾館に来た当初から、彼の事を気にかけていたという。土佐波も、その配慮を快く感じていたのが、その淡い関係に悦子が横槍を入れた。
こうして、台湾館の中で小さな三角関係が始ったそうである。
「しかし、幾ら同じ日本人とはいえ、普段は物静かな千代子が、土佐波のような男に惹かれるものですかね?」
「そこにちょっとした秘密があるのです。ここが今回のお話のキモですから、よく覚えておいてください」
事務員さんは、そう僕に念押しをした。
「えっちゃんの方は、どんな女だったのですか?」
「えっちゃんもまた、他の女給さんに負けず劣らずの美しい娘でした。しかし、自分の美貌をあまりにも鼻にかけるため、皆に疎んじられていたそうです」
「幾つ位だったんですか?」
「二十歳を軽く超えていたらしいです。しかし、すっかり若作りしてたため、パッと見は十代に見えたそうですよ」
事務員さんがこういうと、聞きなれた声が後方から聞こえた
「悦子はね、両耳に大きな真珠をブラ下げて、翡翠色のドレスの隙間から、焦げ付くような真紅の下着を見せつけてたの。ジロリと使う色目が、それはそれは凄まじかったわよ」
振り返ると、いつもの格好をしたヴァルダさんが店の入り口に立っていた。とても大きなカバンを抱えている。
「あっ、おかえりなさい!」
「ただいま、洋子。何だって、そんな大昔の話をしてるのよ?」
「お小遣い稼ぎです。こちらのお客様が、ヴァルダさんの昔話を聞きたいと仰るもので」
「プライバシーも何もあったもんじゃないわね。まあ、別に知られて困る話でもないですけど……」
そう言ってヴァルダさんは、抱えていたカバンを机の上に下ろした。中身は本ではなさそうだ。本ならもっと楽しそうにしてるはずだし……。
「シルレルは売れましたか?」
「なんとかね。祈祷書の方を手放せないから、ホッとしたわ。これで当分、楽に暮らせるわね」
「売れたんなら、なんかお祝いしよー!」
全力さんが、もろ手を挙げて叫んだ。
「お祝いは別に構わないけど、最近の貴方は太り過ぎだから、少し節制した方がいいんじゃないかしら。ところで、今日の売り上げは?」
「千五百円やー! ちゅーるが三本!」
「それって、実質ゼロじゃない……」
ヴァルダさんが呆れた顔をしてそう言った。彼女はお金そのものに執着はないが、お金儲けは大好きなのである。
「貴方も大概ね。猫がしゃべってても、なんとも思わないだなんて」
「ヴァルダさんの傍に居れば、大抵の事には驚かなくなりますよ」
前回の事件の後、僕は彼女が人外の存在であることを認めざるを得なくなった。彼女は少なくとも、天草一揆の頃にはこの世界に存在し、世界征服を企むユダヤの長老たちと今日まで戦い続けて来たのだ。
「それよりも、ヴァルダさんが後藤新平の右腕だったことの方が、よっぽどびっくりしましたよ」
「あら、後藤様のお話まで聞いてたの?」
「日本の絡む陰謀論には、必ず名前の挙がる人ですからね。彼と一緒に満州にも渡ったんですか?」
「お付き合いしましたよ。大戦中の私は、満州と本土の間を行ったり来たりして居りました。その間に、洋子の曾祖父とも知り合ったのです」
「事務員さんの曾祖父?」
「龍野右忠といいます。山師のような人で、『満州で石油を掘り当ててやるから、俺も連れて行け』と、随分うるさかったそうですよ」
そう言って、事務員さんはケラケラと笑った。満州国があった中国東北部は「日本の生命線」と呼ばれ、多数の養蚕業者が開拓団として派遣された場所である。その際に、いくつかの鉱山も発掘調査されたらしい。
「連れて行くべきだったと、後で後悔しましたよ。あの場所からは、本当に油が出てきましたからね」
「大慶油田ですか? もし掘り当ててたら、歴史が変わってたかもしれませんね」
「戦争そのものが怒らなかったかもしれません。まあ、右忠は直感で生きている男でしたから、何の根拠もなかったと思います。よくもまあ、あの男の種からソラのような優秀な技術者が生まれたものです」
「ソラ?」
「私の祖母の名です。タツノ製作所の中興の祖ですよ」
事務員さんはそう言って、少し誇らしげな顔をした。
「終戦後の混乱期に色んな発明をして、右忠が傾けた見事会社を立ち直らせたそうです。まあ、傾いたのは敗戦が原因ですから、全てを彼
の所為にするのは可哀想ですけどね」
北は満州、南はインド、東はハワイにまで渡って繰り広げられたその戦いは、現在では『絹猫戦争』と呼ばれている。帝国に植民地を奪われた列強と、それに反発する独裁国家群の戦いとされているが、ヴァルダさんが言うには、列強を裏で操るユダヤの長老と、それに対抗した悪魔たちとの代理戦争であったらしい。
「後藤さんの帰国後はどうされたのですか?」
「私は満州に残りました。資源調達のためには、大陸に居た方が色々便利でしたしね」
「そりゃそうでしょうね」
「でも後藤様は、私の盟友と言っても過言ではない存在です。台湾総督の頃から数えて、三十年近くお付き合いしましたからね」
後藤は帰国後に東京市長となり、関東大震災の二日後には復興院の総裁の任についた。つまり彼は、満州や台湾だけでなく、今の東京の原型を作った男でもあるのだ。勿論ヴァルダさんは、震災後の帝都の復興のために力を貸したことだろう。
「彼がもう少し長生きしていれば、日本はソ連と戦わずに済んだでしょう。彼は『赤い男爵』と呼ばれるほどの親露派でしたからね」
「本当ですか?」
「ええ、この国で、スターリンとサシで話せた男は、後にも先にも彼一人ですよ。モスクワでは国賓扱いでした。おかげで色がついて、総理にはなれませんでしたけどね」
彼は革命政府にも強力な人脈を持ち、日・中・欧・露の巨大な経済圏を作って米国と対峙しようとしていたという。ヴァルダさんはきっと、その夢の手伝いをしていたのだろう。独逸の躍進で欧州からユダヤ勢力は駆逐され、その殆どは米国に亡命していたからだ。
後藤の夢見た新旧大陸対峙論が現実のものとなり、米国の暴走を抑える国際社会が実現していたら、今の歴史はどう変わっていただろうか?
「難しい話はもうええやろ? それから、三人はどうなったん?」
全力さんが話を戻した。
「何処まで話しましたっけ?」
「千代子と土佐波がいい雰囲気になった後、その姿に嫉妬した悦子の横やりが入ったところまでです」
「土佐波? 何故ここで、土佐波の名前が出てくるの?」
ヴァルダさんが口を挟んだ。
「僕が事務員さんに、何か名前を付けてくれと頼んです。『件の男』とかだと、話を聞いててもピンとこないので……」
「そう。あの男に名前を使われるなんて、土佐波も不憫な男ね」
「ヴァルダさんのお知合いなんですか?」
「貴方、土佐波を知らないの? 国分町を裏で牛耳ってる、赤瀬川の筋者時代の名前じゃない」
「……」
何でも本物の土佐波は、誰もが知るあの組の二次団体の元組長であったらしい。そして、事務員さんの旦那の右腕だったそうだ。現役時代はバリバリの経済ヤクザで、国分町のアングラマネーを原資に数々の仕手戦を展開したそうである。
「じゃあ、大工の本当の名前は何だったんですか?」
「教えてあげても構わないのだけれども、洋子は何か意図があってその名前にしたのでしょうから、私は口を挟まないでおくわ」
「そうですか」
「その代わり、この事件の行く末については、私が直接説明してあげましょう。何しろ私は、現場に居ましたからね」
「僕は元々、ヴァルダさんの話を聞きに来たのですから、それで構いませんよ」
「では、私と全力さんも聞き役に回ることにしましょう」
そういって、事務員さんは全力さんを膝の上に抱きかかえた。
続く。
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