「お母様、あちらをご覧になって! とっても大きなお城よ!」
「アンスリア、お前ももう九歳だ。少しは大人しくしていなさい」
「……はい。お父様」
今から八年前、転生を繰り返してからは遠い過去となった記憶。
初めて領地を出た日、まるで本物の子供のようにはしゃいでいた。中身は一七歳だったとはいえ、元の世界とはかけ離れた景色に感動していたのだから。
草原を自由に駆け回る野生の白馬。湖のほとりで渇きを潤す空想の動物達。物語として描かれていたものが今、目の前に広がっていたとしたら、誰もが見惚れてしまうのも当然でしょう。
「おとうさまー! わたしもおそとみたーい!」
「そうか。なら、私と御者席へ移ろう。よく見えるぞ」
この頃にはすでに、私とアメリナの扱いの差は歴然としていた。私は姉だから仕方がない。そう言い聞かせては心を落ち着かせていた。
でも、その物分かりの良さはかえって不気味だったのだと思う。
誰が教えた訳でもないのに礼儀作法を心得ていて、言葉遣いに幼さはない。まるで子供に化けた魔女だ、と屋敷の者は言う。好奇心で何をしているのか尋ねた時でさえ、監視されているようで気味が悪いと。
だから私は、使用人達からも避けられていた。
「……私だって、外の景色を見てみたいのに」
━レムリア王国・王宮内━
この日は、レムリア王国の第一王子が一〇歳を迎える日だった。私達家族は、王宮で誕生日式典パーティーに招待されていた。
国内外から一同に介した貴族や権力者達が招かれ、互いの自慢と政略を企む。まだ幼い私にでさえ、彼等は媚びへつらう。
「アメリナ、はぐれないように手を繋ぎましょう」
「はーい!」
天使のように微笑むアメリナの手を、しっかりと繋ぐシャルロット夫人。
「お母様、私も宜しいでしょうか」
「貴方は平気でしょう? 我儘言わないの」
何を根拠に平気だと決めつけるのか。もし本当に私の身に何かあったら……。
いいえ、きっとこの人達はこう思っていただろう。
アメリナではなくて良かった、と。
そう思った私は、初めて親に反抗をしてしまった。ほんの小さな、小さな反抗を。
それは両親が貴族達と談笑している時だった。そっと人影に隠れ、パーティー会場を抜け出したんだ。
「わあ……なんて綺麗な夜景なの」
そこは宴の喧騒から離れたバルコニーだった。身を乗り出し、眼下の城下町を一望する。模型のように小さな馬車が行き交い、人形のように小さな人々が人生を歩む。
そこはまさに不思議の国。夢の世界だった。
「ねえ君、そんなに身を乗り出したら危ないよ」
そう言ってきたのは、金色の髪をした少年だった。そう。幼き日のジュリアン様。
でも、その時の私は彼がジュリアン王太子殿下だとは知りもしなかった。
「貴方こそ、こんなところで何をしているのかしら? ご両親とはぐれてしまったの?」
「ううん、違うよ」
再びバルコニーの死角に隠れ、小さく踞るジュリアン様。
「なら、どうして?」
「……恐いんだ。大人の人がいっぱい話しかけてきて。僕、こういうの初めてだから。どうしたらいいのか、わからなくて……」
つい先程まで似た経験をしていた私は、ジュリアン様の気持ちをとてもよく理解していた。本当は子供ではない私でさえ、言い寄ってくる大人達の対応に困り果てていたのだから。それが一〇歳の少年、ましてや初めての社交界ともなれば、さぞ恐かっただろう。
「それは大変だったわね。そうだ、ちょっとこっちへ来て」
「えっ? うん」
私のいる位置は、パーティー会場が窓ごしから見える位置だった。一瞬戸惑っていたジュリアン様だったけど、勇気を出して私の隣へ来てくれたのを覚えている。
「それじゃ、目を閉じて」
「……こう?」
「ええ、そうよ。手も、出してくれる?」
「うん、わかった」
素直に出してくれた両手は、小さくて可愛いくて、綺麗だった。
私もそっと両手を伸ばし、彼の手を包む。
「次はね、深呼吸をするの。いい?」
「うん。スー、ハー、スー、ハー、スー……ハー……」
ジュリアン様の吐息が、次第に柔らかくなっていく。
「最後に頭の中でこう思うの。恐いのは当たり前。誰だってそうなんだ。でも僕は大丈夫。もう平気なんだ。どう? できる?」
「うん、やってみる」
私の手を強く握り返し、きゅっと瞼に力を込め、祈るように戒めるジュリアン様。
握り返されたその手は、少しずつ力が弱まっていく。瞼が開いた頃には、彼の表情はとても柔らかくなっていた。
「これでもう大丈夫ね。一応これ、貴方にあげるわ」
そう言って手渡したものは、銀紙に包まれた一粒のチョコレート。
「これは私なりのおまじない。甘いものを食べると、何だか落ち着くの」
「うん! ありがとう! 僕、行ってくるね!」
「ええ、いってらっしゃい」
こうして笑顔を取り戻したジュリアン様は、私に手を振りながら社交界へと舞い戻っていった。
それが彼と、初めて出会った日だった。
そこで終わっていれば、良い思い出だったのに。
「アンスリア! アンスリアはどこだ!!」
夜も更けた頃、帰り際のヴェロニカ家の馬車の前で、レオニード公爵が叫んでいた。
湯気が出そうなほど顔を真っ赤にして怒鳴る理由は、誰に聞かずともわかる。
私が、勝手にいなくなったから。
その怒りに満ちた姿を見た瞬間、背筋が凍りつき、恐怖を感じた。
「はぁ! はぁ! お父様、お母様、お二人の場から、離れてしまい、申し訳、ございません」
息を切らして、途切れ途切れに話す私。
それはこの世界に来て初めての全力疾走をしたから。
足にまとわり付くドレスを着て、身の丈に合わないハイヒールも履いて。それでも私は、死に物狂いで走ってきたんだ。
「はぁ……はぁ……以後、このような事のなきよう、肝に命じておきますので、どうかお許しを」
「……。」
両手を腹部に添え、深く頭を下げる。そして私は、レオニード公爵の返事を待った。
バシィン!!
突然、甲高い音が脳内に響く。視界に火花が散り、景色が真っ白に消えていった。一体、私の身に何が起きたのか。わからなかった。
「貴様はどれだけ家族に迷惑をかければ気が済むんだ! この疫病神が!!」
「……えっ」
「この! このぉっ!!」
バシッ! バシッ!
「痛い、痛い、 お父様やめて! お母様、助けて!」
バシッ! バシッ! バシッ!
なぜレオニード公爵はこんなにも激昂していたのか。
決して私の身を心配してではなかった。それはただ、すぐに馬車を出して帰れなかったから。瞼を擦るアメリナを、早くベッドに寝かせてあげたかったから。
それが真実だった。
この日を境に、家族の前では笑わなくなったんだ。
この日をきっかけに、私は気づいてしまったんだ。
私は家族に愛されてなどいない、という現実に。
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