コンコンコン。
「アメリナ、少し良いかしら」
あれから翌日。
私は二階にあるアメリナの寝室に訪れていた。今は午前の七時。東から昇る朝陽が燦々と照り付け、廊下を照らす。
屋敷の使用人達が忙しなく仕事をこなし、私の後ろを通り過ぎていく。勿論私に挨拶をする者はいない、なんて言うまでもないか。
まるで私は居ない者、亡霊か何かね。
「はい! どうぞ!」
ガチャ。
「失礼するわ」
そう言って扉を開き、顔を上げた。
瞳に映るのは、久々に見たアメリナの寝室。そこは正にお姫様の部屋だった。純金の装飾を施した新しい家具が煌めき、香油の香りが部屋を包む。それ等を更に華やぐのは、深紅の絨毯。
「お姉様、こっちです!」
レースカーテンから見えるバルコニーには、ドレス姿のアメリナが。
こんな朝から日光浴を楽しむなんて、本当に元気な子だわ。
……元気そうで、良かった。
痛めた足を悟られないよう、歩幅を小さく歩く私。
「あの、昨日の事なんだけど……」
意を決して来たというのに、言葉に詰まってしまう。
「……昨日の、ですか?」
風に揺れる金髪を手で押さえ、アメリナが私の顔を覗いてくる。
「あっ! もしかして、昨日街に行った時のお話ですか!? もう、本当にびっくりしましたよ!」
「あの、その事なんだけど……」
「お昼からお酒に酔ったおじさん達に絡まれちゃうなんて、私ったら運がないですよね! なんか、勝手に酔い潰れて倒れちゃうし」
どういう事? アメリナは同級生の友人達から何も聞かされていないの? 私が、あの場に居た事を。
それだけではない。あの三人の悪漢が酩酊していた? 誰がそんな嘘を吹聴したのだろうか。可能性としては、やっぱり同級生の誰かね。それとも……。
「……そう。無事で良かったわ。それじゃあ、また朝食でね」
「はい! アンスリアお姉様!」
まぁ、誤解が生まれていなかったのなら良しとしましょう。
私を突き飛ばした犯人と言い、今回は特に不可解な事象が多すぎるわ。また余計な事をして、下手に踏み込むべきではないかしらね。
━レーゲンブルク城・正門━
時を少し先へ進んだ今。
私は正門の前に立っていた。隣にはヴェロニカ家の面々が揃い、今か今かと瞳を輝かせている。石畳に沿って整列する使用人達もまた、そわそわと浮き足立つ。
何故私は今、こんな状況になっているのか。その理由を知ったのは、つい先程の朝食の時間まで遡る。
「アンスリア、昨晩はよく眠れたかな?」
「えっ……はい」
「それは良かった。お前は私の誇れる数少ない宝の一つだ。よくぞここまで、美しく謙虚に育ってくれたな」
「……ふぇ?」
レオニード公爵の口から出た奇天烈な台詞に、思わず変な声を出してしまった私。
何せ、そんな事を言われたのは幼少の頃以来だもの。配膳中の使用人達まで心底動揺していたくらいだし。
何故レオニード公爵がこんなにも上機嫌だったのか。そんなの、理由は一つだけしか有り得ない。
「ジュリアン様、遠路遥々お疲れ様でした。ようこそ、レーゲンブルク城へ」
そう。それは王太子のジュリアン様が訪問に来るからだ。理由は当然、私に会う為に。
自分の娘が王家に嫁いだとなれば、レムリア王国でのヴェロニカ家の地位は確立したようなもの。レオニード公爵は、それが楽しみで仕方がないのでしょう。
「君に出迎えて貰えて嬉しいよ、アンスリア」
私の手を握り、満面の笑みを披露するジュリアン様。後光が差すほど眩しいその微笑みで、若い使用人達の心を打ち崩す。
あれ、最年長のエヴリンまで頬を赤らめて眩んでいるわね。
しかし本当に来るとは思わなかったわ。他国へ進軍でもするかのような大勢の騎士を引き連れて、やたらと豪奢な馬車に乗ってまで。
でも良かったわ。あの時のお怪我は何ともないみたい。
「その節は大変なご迷惑をお掛け致しました。お見舞いにも行かず、誠に申し訳ございません」
真実を語る事を許されていない私の、精一杯の謝罪。
本当は宮殿まで顔を出したかった。でも監禁されていたから行けませんでした、なんて言えるはずがないもの。
ジュリアン様からしてみれば、私は御身を犠牲にしてまで助けた相手。なのに見舞いにも来ないなんて、薄情な女だと思われても仕方がない。軽蔑されてもおかしくはない。
「いや、あれくらい大した事はないよ。君に掠り傷一つでも付いてしまった方が、僕には大問題だから」
それでも貴方様は、私を想ってくれているのね。
……まぁ、あの後、掠り傷どころではない程の怪我を負ったけれど。勿論、そんな事は口が裂けても言えないわね。
「はっはっは! アンスリア、親の前で見せつけてくれるな」
「あらあら、見てる私達まで、お顔が熱くなってしまいますね」
穏やかに微笑むレオニード公爵とシャルロット夫人。普段とは明らかに違う二人の態度。この豹変ぶりには、背筋が凍り付くほど寒気がするわ。
でも、この笑顔は、決して作っている訳では無いんだ。昔の二人は、いつもこんな感じだったのだから。
「王太子殿下、上着をお預かりします」
「ああ、すまない」
気を利かせたエヴリンがジュリアン様の後ろに回り、着ていたコートを脱がす。
「形式上着ていたけど、この時期には暑くて厳しいよ」
「そうですね。でも、とてもお似合いでしたわ」
「あっ、ありがとう」
額に手を当て、赤面する顔を隠すジュリアン樣。時折見せる少年のような仕草が、やっぱり可愛い。
「王太子殿下、そろそろ私共は退散すると致しましょう。アンスリア、城内をご案内して差し上げなさい」
「はい、レオニード公爵」
そして私とジュリアン様の二人だけになり、レーゲンブルク城を見て回った。
使用人の視線を恐れて、私も普段は散策できない城内。初めて登った城壁の上から見える景色。どれも新鮮な風景だ。
眼下の街道を往来する領民に手を振り、仕事に勤しむその背中を労う。決して裕福ではない彼等。それでも日々の生活に満足し、幸福に生きている。
私にとっての幸せとは、一体何なのだろう。
「アンスリア、ここはとても素敵なお城だね。見てごらん、特にあの庭園はとても美しい」
そう言ってジュリアン様が指差したのは、薔薇園だった。それは作りかけの庭。私が生み出した空間。
「来た時は気が付かなかったけど、何故だか心を惹かれてしまうよ。あんなに綺麗なのに、屋敷に隠れているだなんて勿体ないな」
「ええ、そうですね」
表には出さないけれど、私は嬉しかった。でも何かがおかしい。何か物足りないような、そんな虚無感が襲う。
「どうかな、あそこでお茶でも」
余程お気に召したのか、そう提案するジュリアン様。
その時私は、何故かこう返してしまった。自分でも、どうしてそう言ったのかはわからない。
「ジュリアン様、そのお誘いは是非とも大庭園にて、お受けしても宜しいでしょうか。そちらも是非ご覧戴きたいので」
私はなんて無礼な事を言っているのだろう。いいえ、そんな事は無いわ。だってあんなに素朴で小さな庭なんかよりも、庭師が手塩にかけて作り上げた庭園の方が良いに決まっているもの。
他意なんて、絶対にないわ。
「ああ、勿論だよ。案内してくれるかい?」
「ええ、では参りましょう」
屋敷の玄関を彩る大きな庭園へ、私はジュリアン様を連れた。まるで彼を、薔薇園から遠ざけるように。
私が作った薔薇の庭。そこへ行きたいと言われた時、ふと頭の中で浮かんだ情景があったからだ。
それはリヒトとメアと私の三人が、楽しそうに笑い合う姿。薔薇に包まれながらテーブルを囲み、平穏な昼下がりを過ごす。
リヒトは紅茶を淹れながら、メアを説教したりして。でもメアは聞く耳持たず、テーブルに置かれたお菓子を食べて。
そんな二人を見て微笑む私は、薔薇の棘を取り、余分な枝を切っていた。
いつかジュリアン様もその中に入れたらと、確かにそう思う。
でもごめんなさい。今はまだ、貴方様を受け入れられないの。
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