どこでもないところの
だれでもないおはなし
一
冬で夜だった。
四区の真ん中あたりのホテルのベンチに座って男は安煙草をせかせかと吸っていた。背も低く不摂生による肥満体の醜男で、足を小刻みに動かすのが男の卑猥さをいっそう際立たせている。ハンチングを被り口髭をたくわえていた。肉塊はサイズの合わないクレリックシャツを着、袖に左右で違うカフスボタンを光らせていた。
女が来た。女は目印の赤い紙袋を掲げてみせる。
「マダム」男は煙草をもみ消し、立ち上がる。
「マドモアゼルです。遅くなってすみません、ムッシュ」
女は紙袋をベンチに放り投げる。女は痩せており、一六一センチメートル、四十五キログラムの身長を高く見せていた。やや低いが形のいい鼻と荒れた肌をしている。黒いタートルネックセーターにグレーのタイトスカート、黒いストッキングを履いている。白いコートのポケットに両手を突っ込んでいた。金髪碧眼のこの女はオフィーリアという名で呼ばれていた。
「来月の第二金曜日、二〇日、ここの三〇四号室にラザニアを届けに来たとフロントに言ってほしい。全員待っています。なお、会議の時間は十四時です」男が立ったままの女に言った。
「分かりました」
男が声をひそめる。「本当にスパイをやったら検挙しないでくれるんですか? ハムレットはもううんざりなんです。強制送還されずにすむっておっしゃるからハムレットに入ったのに、これじゃますます……(言葉を探しているようにみえる)泥沼だ。もういいんです。いったい何のために危険を冒しているんだか(声はか細く、断定的になっていた)。もういいんです(二度目のこのせりふはさらに悲壮感に満ちていた)。ぜんぶ洗いざらい話して後は天に委ねますよ。徒刑場へでも地獄へでもいい、ハムレット以外ならどこへでも行ってやりますよ」
「(オフィーリアは少し間を置いて言う)あなたの果たした役割は大きなものでした。でももう安心して。これで我々はハムレットへの連絡が作れましたから。あなたは金曜の会議にも出席しなくていいし、ハムレットとの関係ももうないわ」男は放心して女の話すのを聞いていた。
「さよなら」女は手を差し出した。両手で男の手を握る。女は右手薬指の爪で相手の掌を引っかく。両手をポケットに滑り込ませた。男に背を向けホテルを後にする。
女を見送る男は掌から血が出ていることに気づいた。しかし右袖のカフスボタンがなくなっていることには気づかなかった。顔面蒼白になりトイレに駆け込んだが、その道中に自らの失敗に気づいた。
風は道行く人の顔を執拗になぶり、たくさんの落葉はその足許をすくった。
大通りにから少し入った一角にあるアパルトマンの階段をオフィーリアは上っていた。四階で彼女はコートのポケットから鍵を取り出す。音をたてないように鍵を挿し込む。鍵は開いていた。
オフィーリアは不機嫌そうにバッグからオピネルの折り畳みナイフを取り出し、ドアを静かに開ける。部屋の中にはオフィーリアと同じ金髪の女がいた。
「おどかさないでよ」
「おかえり。寒いから閉めて」
「こんな遅くにどうしたの」
「ちょっとね」
その金髪の女は部屋の中でヘネシーのブランディをバカラに注ぎちびちびやっていた。
パンツスタイルのダークスーツに薄紫のショールをまとい(オフィーリアが彼女をにらむとショールをテーブルの上に置く。自分のショールを返されたオフィーリアはわずかに口許だけでほほ笑む)、名をレアティーゼといった。
レアティーゼは部屋の隅の肘掛け椅子に腰かけ、青い瞳(目は大きく見える)でオフィーリアを眺めていた。オフィーリアはナイフをテーブルに置き、コートをソファに放り投げる。
バスルームへ向かったオフィーリアをレアティーゼはそのままぼんやりと眺め続けた。
オフィーリアは右手の薬指の付け爪を剥がし、石鹸とブラシを使って爪を慎重に洗う(付け爪と爪の間には茶色い乾きかけた液体があった)。ブラシでこすってそれを洗い落とす。
「まだアトロピン使ってんの」とレアティーゼが訊く。
「煙草を煮出した液を使っているわ。それが何?」
「あたしはベラドンナが好き(レアティーゼはベラドンナを煮出して作った高濃度のアトロピンを爪の間に入れており、また液を瞳に差していた。そのため瞳孔が散大し大きく見える。彼女はそれが気に入っていた。無論それでは視力も大きく落ちるが)。煙草汁? はっ、誰が使うのよそんなもの」
オフィーリアもかつてはアトロピンを使っていた(鋭利な鱸の鰓蓋でできた付け爪は相手の皮膚を切り裂き、切創から入るアトロピンはその者を心室細動に陥れる。現在使っている煙草の液は急性ニコチン中毒による中枢性呼吸麻痺を招くものだった)。
レアティーゼは髪を掻き揚げウィンストンに火を点ける。オフィーリアもタオルで手を拭いてゴロワーズに火を点けた。
オフィーリアはくわえ煙草のままキチネットで鍋を火にかける。棚から出したパイプ用煙草のボルクムリーフをほぐして煮詰める(猛烈なな臭いが部屋に充満する)。レアティーゼが「今日の男はどうだった」と訊く。
「汗っかき。臭かったわ。ああいうの嫌い(レアティーゼはグラスを目の高さに掲げる)」
オフィーリアは立ったままテーブルのウォッカをグラスにそそぎ、ひと口飲む。
「それで」とレアティーゼが訊く。
「後は知らないわ」
「そうなんだ。で?(レアティーゼはヘネシーを飲み干す)」
オフィーリアは脱いだコートを顎でしゃくった。レアティーゼはコートのポケットから男のカフスボタンを取り出す。
「ふん、なかなかいいじゃねえか」とすっかり酔いの回ったレアティーゼが鑑定する。
「それで、お客様。ご用件は?」
レアティーゼは呂律の回らない口調でこう話した。「ええと、公安庁は全面的な再構成を必要としてるのね、知ってのとおり。萎えてきたのよ。不能者。インポってこと(レアティーゼは突然けたたましく笑う。オフィーリアは眉をひそめる)。で、公安庁はあたしとあんたふたりを使うだけの余裕すらないらしいの。だからどちらかが辞任するか、罷免されるか、まあそういうこと。よく分かんないんだけどね」
オフィーリアは鍋の火を止める。
「レイアも何考えてるんだか。だったらまっさきにクラウンを馘にすればいいのに」そう言うオフィーリアは何も感じていないように見える。
「そりゃそうね。でもいつだって上の考えてる事は分からないものよ(疲れたように目を細めて言う。そうすると年老いて見える)。とにかく、決定が出てから変に逆恨みされちゃ困るから先に言っとこうと思って。じゃ、報告終わり」
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