三
夜も明けきらぬ頃にオフィーリアは起き出した。煙草を吸いながらキチネットで湯を沸かしコーヒーを淹れる(煙草をもみ消した灰皿は吸殻があふれるほどになっており、それを窓から捨てる)。フィセル(細長く水分が少なく、堅いパン)をコーヒーで流し込み、黒革のコートを羽織って外へ出た。
トゥルネル橋まで歩きそこで歩みを止める。背中を欄干に凭れかけさせ、肘を手すりに乗せ体重をかける。首を肩にうずめ、そのままジタンを二本吸った。
日が昇ったころにアパルトマンに戻る。ドアに紙が挟まれていた。
「オフィーリア。安酒は体に毒と言うけれど、いい酒でもあれだけ飲めばいずれにしろ不健康。VSO以上であれば何でもいいわ。レアティーゼ」
手紙をテーブルに放り、黒革のコートを脱いでからマルテルの瓶をひと口あおる。地味なパンツスーツに着替える。室温とはいえこの寒さだ、飲み頃に冷えたペリエを飲む。胃の中が陰圧になっている錯覚がした。ドアノブに手をかけようとし、引き返してアルコールをもうひと口飲んでから外へ出る。
午まえまで早足で街を歩き回った。公文書館の近くのブラスリーに入り薄いコーヒーとまずいクロワッサンを賞味したり、士官学校近くで最後の抵抗を見せるギャルド付軍楽隊の演奏を聴きながらベンチで本を読んだりした。「瞳の美しさ、心の苦しみ、機知の光も御照覧あれ。私は貴女の前にひれ伏し(ますが)、足元の埃には接吻しません」。そのあと馬車で市役所へ行く。
窓口でレアティーゼの代理の者だと名乗って、戸籍謄本の開示を求めた。「委託とご身分とを証明できるものを」との係の者の求めに従い、公安庁で支給された偽の身分証明書を見せた。「それで、ええと、謄本のご使用の目的は」中年の黒の腕抜きをした戸籍係が目も上げずに訊く。「相続に関することです。まわりに法律に詳しい人がいなくて、全部やってほしいと依頼されまして。それで私が取寄の代理を。行政書士の登録証はこちらです」とオフィーリアは答えた。掛けてお待ちくださいと言われ、婚姻届をかき集めていると呼び出された。黒の腕抜きを外した戸籍係の男から「こちらが謄本です。謄写手数料は三番の窓口にてお支払いください」と書類を渡された。手続きを済ませたオフィーリアは謄本を持ち帰った。
役場を出、グレーヴ広場を抜けたところにカブリオレの辻馬車が通りかかる。乗り込んだオフィーリアはパンドーム広場へ、と御者に告げた。汚い身なりの男が貴族風の男を襲うのを認める。「止めて!」オフィーリアは叫んだ。得物は鉈で、貴族は肩から血を流し何かを叫びながら地面を転げまわっていた(周りの人間が遠巻きに見物している)。襲う方も襲う方でよく聞き取れないが激しく喚いている。貴族が動かなくなった。浮浪者は死体の首を切断しようと努力したが、鉈では到底無理だった。断頭は諦め、金目のものを奪うとどこかへ逃げた。死体の周りに乞食たちが群がる。オフィーリアは見届けると御者に「出して」と命じた。馬車を降り白い建物の中へ入った。
アドバイザリー・パートナーの男を紹介してもらった調査官と会った。地味なグレーのスーツで、発達した三角筋が肩を膨らませているのが分かる。調査官はオフィーリアの呼ぶ声に足を止めず手洗いへ入った。オフィーリアが追いかけて中へ入ると、その調査官は腕組みをして壁に寄り掛かっていた。
「会いたくないって言ったでしょ」と調査員が顔をしかめる。
「分かってるわ。軍人でも極右は嫌いでしょうね。でもこれは仕事なんだからそう避けないでよ」
オフィーリアは煙草を調査官に勧めた。断られたのでひとりで吸う。洗面台に灰を落としながら(いささかトーンを落として)言った。
「公安庁の辞令があるわ。私達の戸籍が必要なの。言っている意味分かる? 人間を整理するの。リストラ。だから謄本出してよ」
「首切りに戸籍まで要るの?」
「ああ、あなた軍から来て日が浅いのよね。わたしたちは戸籍上の身分も公安庁が作った偽物だから、公安庁を辞めさせるには実物が必要なの。馘にする人間だけじゃなく残る人間のも必要よ。これを機に戸籍を整理するつもりよ、上は。一応わたしはあなたの指導役も仰せつかってるし、頼めない?」
「ああ、事務が馘になったから皺寄せ? 仕事なら仕方ないわね。じゃあすぐやろうか?」
「助かるわ」
オフィーリアは同僚たちの目を盗んで謄本をアパルトマンへ持ち帰った。まだ日は高い。
夜になるのを待つ(部屋で酒を飲みながら本を読み、煙草を吸った。灰皿はすぐにいっぱいになる。窓から捨てるが他の住人は彼女に注意しない。以前管理人がしたり顔で説教に来たが、適当な理由をつけて追い返してやった。そのからというもの、彼女は誰にも苦言を呈されない代わりに、挨拶もされなくなった。好都合だった)。オフィーリアはパブへ出かけた。
前とおなじ席におなじ男は腰掛けていた。オフィーリアも席に着く。
「用意は済みました」と男は言った。
「そう」
「今は持っていません。あなた方の素性もよく知らないのにこういう話をするのはよくないと上が言うもので」男は酒をすすった。目が泳いでいる。
オフィーリアは笑った。
笑った後で哀れむような、蔑むような目で男を見た。
「そちらに駆け引きするだけの立場があって? 我々はあなた方に素敵なレディたちをご紹介しようと言うのよ。あなた方は喜んでそれを受け容れこそすれ、拒む理由はないはずよ。この件であなた方に不利益でも? 罠にはめられると恐れているの? アドバイザリー・パートナーのあなたが上の顔色伺いを? わたしが指を鳴らしたら二個分隊の憲兵隊がやってくるのに? わきまえて欲しいものですわ」
男はまた黙り込んだ。周りの人間が何事かと好奇の目でふたりを見る。男は隣のテーブルに座った別な男に目配せをして、アタッシェケースを持ってこさせた。
「参りましたな(ケースを受け取りながら言う。苦笑いを浮かべている。目はオフィーリアには合わせない)。よろしい。謄本はここにあります。(ケースを開く)全部で七名分。警戒する者が多くてね。立場上、無理もないんです。結局これだけしか集まりませんでした。血判状はこちら。これでよろしいのなら」と、男は言った。
そんなに暑いわけでもないが(男はコートを脱いでいない)オフィーリアは額に汗を浮かべていた。「この喜ばしき夜に」と、オフィーリアはグラスを空けた。
部屋に帰り、オフィーリアはベッドへ倒れこんだ。寒い夜だった。酒を飲んだ後では冷えも強い。毛布を頭まで掛けても冷気は忍び寄る。体に毛布を巻きつけたまま起き出す。バッグからウーゾのミニチュアボトルを取り出して呷った。喉が焼ける。それからまた眠ろうとするが、アルコールによる熱はすぐに奪われる。オフィーリアは部屋の灯りを点ける。作業に取り掛かった。
机の上と床に大量の書類――婚姻届、ハムレットの外人工作員と調査官の謄本、血判状、オフィーリアが事務仕事の際にくすねた調査官のサイン、およびアルマニャックとダビドフとを並べる。
オフィーリアは婚姻届に謄本とにらめっこして必要事項を記入し始めた。次いで平らな鑢の上に蝋引きした紙を載せ、その上にレアティーゼからの手紙を重ねる(体を気遣い、酒に注文をした手紙だ)。サインの部分を鉄筆でなぞり、細かい孔の開いた蝋引きの紙を婚姻届の上に載せる。その上からインクを染ませたローラーを注意深く転がすと、婚姻届に「レアティーゼ」とサインができていた。乾くのを待って、レアティーゼの謄本と誰か知らないハムレットの謄本、そしてかれらの婚姻届を封筒に入れた。ブランディの酔いが回ってくると(体に毛布を巻きつけたまま)葡萄ジュースを取ってきて混ぜ、フロック・ド・ガスコーニュにして飲んだ。飲んでは書類に向き直り、ひと組がすむごとにひと口酒を呷る。オフィーリアは毛布を体に巻きつけたまま作業を進めた。
そうやってつぎつぎにカップルを誕生させた。重複している新郎新婦が多くあった。オフィーリアは立ち上がり、不要な書類をフライパンに入れ、ブランディをかけて焼いた。
不眠不休の作業は役所が開く時間ぴったりに終わった。頬はこけ、目の周りに隈ができ、瞳はぎらぎらと輝いていた。口の中がすっぱい味がした。舌苔をスプーンでこそぎ落とし、水でうがいをし、爪にマニキュアを塗った。スーツに着替え、一散に市役所へゆき、どっさりと婚姻届を提出した。
「いったい何人分あるんです?」と窓口は驚いた。
「いつの時代にでも愛はあるってこと」とオフィーリアは頚を鳴らした。
しばらくすると公安調査庁内部に重婚の噂が飛び交った。
職位の高い調査官5名ばかりが重婚したらしい。違う、はめられたんだ! 噂はすぐに混乱へと規模を上げ、クラウンは「だから面白いんだよね、この仕事は!」と喜び、謄本を用意した情報部の派遣将校は「ねえオフィーリア! わたしを騙したの?」とびくついた。「大丈夫、あなたに累は及ばないわ」
事実、課長級以上である彼女やオフィーリアの謄本は厳重な扱いで、かの女自身も用意できなかった。ゆえに彼女は重婚させられるのを逃れた(いずれにせよ、オフィーリアはかの女を巻き込むつもりはなかった)。
「何よ、何だっていうのよ!」調査官に詰め寄られたオフィーリアは知らぬ存ぜぬで通した。
公安庁の混乱と並行してハムレット内部にも重婚騒ぎが持ち上がった。アドバイザリー・パートナーの男は面目丸つぶれとなって一家全員殺され、よく分からないままに知らない女と結婚した工作員もことごとく姿を消した。公安調査庁の調査官やその上司も停職、免職処分を受けた。
「詐欺です! 747条を使えば婚姻の取消ができるはずです」
レアティーゼは足掻いた(ほかの重婚疑いの調査官らも同様に反駁した)。
「だめだ。もう失態は公安庁の外にも洩れている。いまや個人の問題ではないんだ」とトレフルは諭す。「どうしたっていうのかしら」とオフィーリアはそらとぼけた。
「デスクに来てほしい」とレイアからのメモが来た。オフィーリアは悄然としてレイアのオフィスに入った。
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