四
「掛けてくれ」オフィーリアはデスクをはさんでレイアの前に座った。いまやレイアはネクタイも緩め、マッカランをフラスコから飲んでいる。オフィーリアは酒を勧められたが断った。レイアは煙草を取り出す。
「ご苦労だった。これで公安庁とハムレットのパワーバランスが均衡化したな。やれやれだ、オフィーリア。やや乱暴だが結果論として、まあうまくいったといえよう。戦争が長引けば長引くほど儲かる仕事というのは、そうあったものではない」レイアの咥えたデスにオフィーリアは身を伸ばし、サロメのライターで火を点ける。
「増税しようがなんだろうが、こればかりはやめられなくてね」と鼻孔から満足げに煙を吹いた。「ハムレットを潰すのは惜しい。対抗勢力がそうなっては予算が下りなくなるからな」
「(それまでずっと俯いていたオフィーリアは顔を上げる)それは――いくら予算が少ないとはいえ血税を――国民は今にも爆発します。それ以前に、この政権のままだと軍事クーデタが起こりかねません。それなのにわたしは、予算のためだけに――(オフィーリアは俯いて額に手を当てた)」
「君を見込んでの仕事だったんだ。君こそのレアティーゼを排斥するために重婚させたんじゃないかね? ふん、おめでとう。これで首がつながったな。ハムレット対策の全権を握っている君にはピックも頭も上がらんだろうよ。ピックの職位も形だけさ。さぞかし愉快だろうかと思ったのだが?」
「少し休暇を取りたいと思います。全権は一旦、ピックへ」オフィーリアは俯いたまま言った。
「好きにしろ」
オフィーリアは一礼して部屋を出た。
ドアを開けるとレアティーゼが立っていた。「聞いてたの」とオフィーリアは悲しそうな声で言う。
「仕方ないといえば仕方ないわね。もういいわ」とレアティーゼが言う。
「さぞかし憎いでしょうね、保身のためにあなたを使ったんだから。全部わたしが悪いの。あなたにはどう謝っても謝りきれないわ」
「あんたは真面目すぎるのよ。ひとりで悪役を引き受けるつもり? なんのメリットもないわ。それに、あんたは私の姉貴じゃない、アン(レアティーゼは本名で呼んだ)。しょうがないのよ。公安庁はあんたに汚れ役を全部押し付けたんだわ。悪いのは庁よ。いや、だれが悪いとかじゃない、とにかく、このくそったれな時代が悪いのよ。悪い時代に生まれたのが運の尽きなのよ」
「もういいの」レアティーゼの言葉を最後まで聞かずにオフィーリアはトイレに駆け込んだ。
便器に顔をうずめ吐く。コールタールのような吐瀉物だった(赤血球のヘモグロビンと胃の中の塩酸が結合した塩酸ヘマチンの色だ)。
トイレを出るとレアティーゼは消えていた。
吐いて少し気分転換になったところでオフィーリアはゴロワーズを吸った。
(その後、オフィーリアはレアティーゼが私宅軟禁されていると風の噂に聞いた。オフィーリアはその日一日酒を飲み続けた)
オフィーリアはアパルトマンへ帰り、寝巻きに着替えると泥のように眠った。目覚めることのないかのような、死人のような寝顔だった。
オフィーリアは南方の山岳地の向こうの平野部で冬を越すつもりだった。南は暖かかった。ホテルの部屋にある鏡に指を這わせる(爪には何も塗っていなかった)。鏡に映る指との間が空いていれば、鏡の奥で誰も監視していない証拠だ。そこでオフィーリアは今までの睡眠不足を取り戻すかのように眠った。一〇時すぎまでベッドで眠り、昼と晩は食堂へ下りて簡単な食事を摂る。もう無茶飲みも吐血もしなくなり、体重は平均値に戻り、肌も若干ながら赤みを取り戻した。
そのころからオフィーリアはペリックの煙草をやめ、ウィンストンを吸いはじめた。爪の毒薬にアトロピンを選ぶようにもなった。だんだんレアティーゼに自分を似せていることへの自覚はなく、公安庁ではハムレット対策の予算と権力をほしいままにしていた。
さて、かの女は正しかっただろうか? もし仮に後悔に明け暮れることがあっても、あの時オフィーリアはそれが正しいと思い為していた。オフィーリアはいつだって正しかった。仮にわざと間違いを犯そうとも、そうするのがよいと判断し行なったはずだ。ゆえに我々は常に最善を尽くし生きている。あなたもわたしも、いつだって正しい。
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