ニコチアナ・タバカム

それは、わたしが闘う理由たりえるか――某国・公安調査庁 VS 反政府組織『ハムレット』。今、ふたつの勢力を掌で転がす時だ。
煙突
煙突

第二話

公開日時: 2021年9月16日(木) 11:39
文字数:3,513


 朝、オフィーリアはアパルトマンを出て河沿いに歩き、パンドーム広場へ入る。建物の中に入り(衛兵に身分証を見せる)ほの暗い廊下を進む。

 会議室の扉を開く。

「遅刻だ、オフィーリア」と男が咎める。口髭を生やしたシルバーのスリーピースはオフィーリアを見つめる。赤毛には派手なウェーブがかかっており、名をピックといった。「まあいい。報告してもらおう」

「ホテルで男に会って必要事項を訊き、始末しました」オフィーリアはよく通る(静かでもある)声で報告した。

「それだけか(オフィーリアはもちろんです、といった)。ならいいんだ。あとはハムレットの身内がやってくれるはずだ。これは君に全権を委託している。組織のために言うが、慎重に頼むぞ」


 会議室は広いがそのため暗く、出席者の面々の顔へ影を落としている。オフィーリアは自分の席へ歩み寄り、静かな所作で腰を下ろす。コーデュロイのパンツに黒いタートルネックのセーターを着、革のジャケットを羽織ったラフな出で立ちだった。昨夜の不眠のため起きる時間が遅くなって服を選ぶ時間がなかった。急いでつけたロングピアスが暗がりに光る。


「今回のハムレットの会議にはわれわれも注視している。どうもきな臭いと言うか、剣呑な事態に備えているようだ。あるいはそういう事態を招き寄せているのか。

 会議は秘密裏に開かれる。ハムレット内部の我々の調査官も、会議の実施の決定を知ったのは一週間前の事だ。その夜の会議で報告したとおりだ。ハムレット内部でも全員が把握しているわけではない。幹部レベルの会議だろう。

 とにかく、ハムレットに関与した国内外の外人幹部が集まるとなれば、無視できない。」と、ピックとは別の男が言った。線が細く、フラノのスーツを身にまとい、丸眼鏡を掛けた男で、名をトレフルといった。


「ハムレットの皆さんはいつも隠れてるんだよね」と、また別の男が解説した(彼が昨夜オフィーリアとレアティーゼが解雇すべきだといっていたクラウンである)。


 クラウンの発言からややあってトレフルは話を進めた。「ハムレットはいま内部分裂の嵐の中にいる。革新派と穏健派の間でな。それはむろんここにいる同志の尽力があってだが。この会議を君が誘導できれば、ハムレットの外人幹部の中でもそれを進展させるものとなるだろう」と、トレフルがオフィーリアを見ながら嬉しそうに言った。


「当局はハムレット内部の調査官を増員することにした。オフィーリア、引き続き統括を頼む」

 オフィーリアは辞去した。


 廊下でレイアに声をかけられる。そのままオフィーリアは上司のオフィスに入った。部屋を出ると(オフィーリアは気分が悪そうだった)、今度はピックに話しかけられた。

「(ウェーブのかかった茶髪を掻き揚げる)人員削減案のことは知っているな。きょう事務のやつらがたくさん首切りにあった。つぎは公安職の削減をはじめるそうだ。で、だ。君とレアティーゼのどちらかに行政事務へ移籍と、つまりそうせよと上がうるさいんだ。君らには申し訳ないが、何分このご時勢なんでね」

「それはかレアからも聞きました。正直なところ、辞令も出ていないのにそんなことを話されても困ります。それともどちらが身を引くか、仲良く相談しろとでも?」

「(鼻背にしわを作る。不機嫌なように見える。それから力を緩めて鼻で笑う)そう尖るな。出向やら失踪やらで総務は記録に忙しいんだ。調査官を辞めたからといって職にあぶれることはないだろう。君らは有能でもあるしな。ほかの省庁にも席があるかもしれない」

 オフィーリアは背を向けた。


 深夜のパブ。

 六区のごみごみした区画にあって、汗の匂いと喧騒に包まれている。待ち合わせていた男とオフィーリアはグラッパ(葡萄の絞り粕から造った蒸留酒)を飲んでいた。


 店内では酔いの回った楽士がバンドネオンとヴィオル、トラヴェルソというトリオによるジグを演奏している。男との接触はハムレット内部に放った調査官の働きにより叶った(オフィーリアはよくかの女と組んでいた。陸軍情報部の派遣将校で、公安調査庁の中でもそれなりの地位にあった)。


 オフィーリアはその男に静かに言った。

「単刀直入に申します。あなた方に協力を申し出ます。内規により詳しい身分は話せませんが私どもは政府の中でも左と位置づけられています。やり方は違えど、目指すものは右側の人間と同じです。噂での段階ですが、政府は不換紙幣を発行するとも言われているのはご存知ですよね。この不況下にそんなことをしたら国民の不満は文字通り、爆発するでしょう。疲弊した政権は、銃口はを国民に向けています。ここは機動力に優れたあなた方の組織のお力に頼るほかありません。ぜひ来月の二〇日の会議、そこで提案したいことがあります。もちろんこれは非公式な依頼ですが、いかがでしょう」

 男は四小節のあいだを黙り込み、口を開く。

「政府が協力を? 今にも隣人に襲われそうなしがないパン屋に? これは面白い。うちの店の襲撃予定日でも教えてくれるのですかな?」

 男は酒をすする。ジグは終わり拍手が起こり、少し間が空いて(楽士たちがアルコールを補給したのだろう)タンゴが始まる。死にそうな生活を忘れるために踊るものが出た。

 オフィーリアは頬笑を浮かべる。

 男は二階席の酔っ払い(ジョッキを片手にくだをまいている。ざわめきの中辛うじて不況を嘆く声が聞き取れる)を、そこに未来があるとでもいうようにのぞき見る。男は先程からしきりに眼鏡を人差し指で押し上げている。オフィーリアが口を開く。

「まったくお心当たりがないとでも? 深夜よく家を抜け出して、どこかへ馬車を走らせるのに? 何も取って食おうという訳ではありませんわ」とオフィーリアは喋るあいだ頬笑を崩さない。

 それから幾たびかふたりは話し合い、やがて男が口を開く(「奥様の弟さんの借金があっては、下の娘さんを学校にやるのも難しいでしょう?」とオフィーリアが言うと男はつばを飲み込んでうなだれた)。


「よろしい。お話しましょう(ええ、賢明ですわ、とオフィーリア)。会議の議題は外人ハムレット支援者が、本邦で永住権を取得させるということです。かれらに家がないというのは困りますからね。弱みはひとつでもなくした方がいいんです。

 現在活動している外人支援者はおよそ三〇名。そのうち一〇名は外事要員で近隣諸国に残らせます。かれら三〇名の賛同者は、祖国を完全に捨ててでもこの国に寄与したいと考えている者です。我々ハムレットは、国内で活動中の外国籍の者をアソシエイトからパートナーへ昇格させるには本邦籍を取得させるべきだと結論しました。それがアドバイザリー・パートナーである僕の仕事なんですよ。まあ、人によっては僕を過激だのなんだの、陰口をたたく者もいますがね。

 今回の会議においては永住権の取り方を検討、まあ業者に頼むと思いますがね、つまるところ業者の選定を行ないます。生活習慣や語学ですとか、書類作成、戸籍の登録など、さまざまな業者もこの会議で決めます。かれらを完全にこの国の人間にさせるのです。現状では不法滞在の者が多いんでね(男はまくしたててため息をつく。グラスを空にした)」


 オフィーリアは相槌を打ちながら聞き、最後にゆっくりと頷く(深い関心を寄せているように見える)。コーヒーをふたり分注文する。

「さて、あなたの提案というのは? マダム」

「マドモアゼルです。コーヒーを飲みながらでよろしくて?」

 と、オフィーリアは頬笑む。薄紫のショールをたたみなおす。

 運ばれたコーヒーに彼女は砂糖をひとつまみ入れ、匙でゆっくりかきまぜる。

「提案いたします。わたくしどもで永住許可証を斡旋しましょう。簡単ですわ。邦人と偽装結婚をすればよいだけです。幸い、わたくしどもは政治犯の家族など、こちらの言いなりになる人間を保有しています。抵抗はおありでしょうけれども、この国のためです。そこで戸籍抄本とか、出来れば謄本など書類がいくつかが必要になってくるのですけれど。もちろんサインもです」

 男は眼鏡をはずして、顔を手で何度もこすった。「そこまで調べられているのに気づかなかったとはね。迂闊だった。しかしそれは嬉しい。なるべく早く全員分そろえましょう。サインは血判状の写しがある。実に、こう、なんと言ったらいいのか」

 男は「奢りましょう」と言って上等なカルヴァドスを注文した。

 しばらく酒を手に談笑し、その後ふたりは次に会う約束をとって握手を交わし別れた。

 部屋に帰ったオフィーリアは煙草を二、三本吸い、爪の手入れもせずにベッドに入った。寝返りを幾たびも打ち、時おり起き出して窓辺に立っては眼下に流れる河を見ていたりした。

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