雨音が激しくなる。傘をさしていればよかったと後悔する余地など、今の二人には――ない。
「コウマさん! こっち!!」
エマが呼ぶ。しかし、コウマは気づかない。やむなく強引に肩を叩き、前にのめり込むように彼の視界に入り込むエマ。
「こっちです!!」
指を差して近道を教える。それに頷くコウマ。何か言いたいようだが、雨音に掻き消されてよく聞こえない。
しばらく行くと、二人の視界に広がる住宅地。マンションが立ち並ぶ地区にあたるのだが、幼稚園や小学校が近いということもあり、家族連れが多く住んでいるのが特徴だった。
――たしか、この前の誘拐事件もここに住んでいる人から発生したんだ。
妙なまでに周りの音が消えていた――エマの思考は研ぎ澄まされていたのかもしれない。冴える推理。かえって視界も広がり、余裕をもって周りを見渡せている。
◆ ◇ ◆ ◇
「足無いなら……浮遊能力があってもおかしくない……か」
コウマは思案していた。そして、彼自身、疑問点が一つ。
「雨音の割に……頭濡れてへんのやんなあ」
耳に入る音が、なぜか限られている――そんな気がした。さっきもエマの声聞こえへんかったし、とエマを一瞥する。彼女はそそくさと角を曲がっていくので、それについていく。「こいつはここらへんの土地勘でもあるんかい」と不思議に思いながら。
「見つけました……」
高虎エマが指を差す先――その先に視線を向けるコウマ。すぐに合点が行った。てるてる坊主姿の愚魔――そう、こいつこそ、かつてヒバナが追っていた“人形型の愚魔”であった。
「なぁんか妙なやつやなあ」
簡単に現れすぎ――コウマが抱いた感想である。3件連続で幼児を簡単に誘拐し、誰にも見つかっていない。愚魔狩としては優秀な部類に入るヒバナの索敵をかわし続けた。そんな愚魔が、愚魔狩素人レベルのエマに簡単に見つかりすぎなのである。
「誘導か」
コウマが一つの仮説を立てた。この周囲の音も聞こえにくい状況――雨音という雑音。冴えているエマ。エマの“餌魔”であるという特性。これらの状況証拠を頼りに、コウマは、『ここに愚魔によって導かれた』という仮説を立てたのだ。
その仮説を基に作戦を立てることにしたコウマは、エマの肩を叩く。エマは息巻いて振り返り、含魔銃を構えていた。なにやら自信ありげな顔を見せている。
「待ちぃや。相手の出方少しは窺うで」
この声も届いていないのか、エマは首を傾げ、すぐに勇み足を一歩、二歩と進める。
「ちっ……意思の疎通さえできひんとは……」
これもきっと、愚魔の能力なのだろう。雨音が強いだけではない。音を聞こえにくい状況を、この愚魔が作り出しているのだ。つまり――不利な状況に誘い出されたのである。
「……まだ地下鉄の真愚魔のほうがマシやで」
あのときは、相性のいい者たちが連携を組めた。今は違う。意志の疎通すらほぼ不可能に近い。おそらく、あの人形型の愚魔は、エマを狙っている。エマ自身それに気付いているのか、コウマには確かめようがない。
――ああ、もうかったるいワ。
走り出す。エマを追い越す。人形型の愚魔――それを殺すために、“降魔の剣”を鞘から抜いた。
「降魔術――『紅蓮閻魔』!」
刀身を紅蓮色に染めて、人形型の愚魔に切りかかる。地獄の炎で燃やし尽くすという算段だ。しかし、人形型の愚魔はひらひらとした布の部分から、白い腕をのぞかせた。
「!!」
猛スピードで駆けていた足にブレーキをかける。ためらった。躊躇した。その白い腕の先にいた小さな体を見たからである。
「が、ガキ……!」
後ろを振り返れば、エマも固まっているのがわかった。そう、これは人質だ。人形型の愚魔が、狡猾にコウマと戦うための、人質なのだ。
「……なかなか厄介なことしてくれるやないか」
「た……すけて……」
悪趣味な愚魔だ。いや、もともと愚魔にまともな趣味などない――子どもの声は聞こえるように、愚魔は周囲の音をコントロールしていたのだから。
雨が、コウマとエマの肩を、頭を、濡らす。コウマが気づいた通り、音の割にそこまで強い雨ではなかった。しかし、二人の服はもう重さを感じるほどに、雨を吸っていた。膠着状態の最中、コウマは動けないでいた。
――紅蓮閻魔や愚龍ではガキを巻き込みかねへん。蛇尾蛇尾蛙鞍は初動が大きすぎて敵の愚魔に隙を与えることになるし、魔猟犬はそもそも戦闘用やない。燈籠蟷螂はタイマン特化かつ対真愚魔特化やし、蜥蜴魔少女は爆発系……この湿気の中やったら役に立たへん。鎌鼬は……霹神威は……あかん、どいつもこいつも……この状況に向いてへん。最悪や。
ここに来て、“ある意味”での“経験不足”が出た。彼自身、優秀すぎたがゆえに、このレベルの仕事をこなしたことがない。関わった人間が大方死んでいる大物の愚魔か、それよりももっとハイレベルな真愚魔との知能戦によるタイマン。圧倒的な破壊力、殺傷能力を持つ愚魔に対する“護身”と“攻略”のための降魔術は携えていたが、このような人質の“奪還”や“救助”、あるいは周囲を“補助”するような愚魔の魂は、吸わせていなかったのだ。
「隙も与えずに、なおかつ即死させられる。そして、人質に危害の無い愚魔がおらへん……」
誤算というほどのものでもなかった。コウマ自身、特に焦っているわけでも動揺しているわけでもない。ただ冷静に機を窺っている。唯一の懸念材料と言えば、エマの出方が読めないことだった。
「狙われてるんは間違いない。せやからこそ……下手な手は打てへん。エマが息巻いて何かしてやろうとする雰囲気を出してるのも気がかりや……」
独り言をぶつくさと呟く。どうにか聞こえていてはくれないかと、一縷にも満たないほどの望みを抱きながら。
「降魔術ッ! 『蛇尾蛇尾蛙鞍』ッ!!」
蛙の口から蛇が二頭。とぐろを巻くのみ。愚魔の出方を窺うことしかできないコウマ。
――何もしてこない……か。
刹那、横切る影――エマがコウマを追い越した。
「ま、待てッ!!」
コウマの制する声など、きっとエマには聞こえていない。強引に止める方法――ある!!
「降魔術ッ!! 『魔飼犬』」
――6級のザコ愚魔だ。乱暴やけどこいつに止めさせるしか!!
召喚された愚魔の魂が、実体化してエマを追う。牙の見える口を開けたその瞬間――エマの汗が――魔飼犬の腔内に入り込んだ。
ピン――と空気が張り詰める。“何か”が変わった。瞬時に暴風を感じたエマは、走り出していた足を思わず止める。雨音は――爆音を奏でんと言わんばかりに風を切る黒い体毛に掻き消される。
「……ッ!?」
息を呑む。一万分の一秒――魔飼犬は、その牙で、白い腕を千切り取った。
唖然。
「エマッ!! ガキ回収や!!」
「は、はい!!」
周囲を遮っていた雨音も、不透明だった聴覚も、すっかりと忘れていた。エマはすかさず滑りこみ、魔飼犬が千切った腕の先につかまっていた子どもを助け出す。コウマはここぞとばかりに距離を詰めた。
――すぐにやられるんは狡猾とは言わへん。姑息っちゅうんや!!
一歩踏み込み、刀を差し込む。人形型の愚魔の頭に刀身が突き刺さる。そして、エマの汗を摂取したことによって“発達”した魔飼犬が、次は頭とスカートのような布地を――引き千切って分断した。
雨は弱まり、驟雨の始まりのような、そんな空模様。捕まっていた子どもを精一杯抱きしめるエマ。
「もう大丈夫……大丈夫だから……」
子どもは自分の名前を、「修一」と名乗り、エマの身体を抱きしめ返した。エマの言葉も、修一のすすり泣く声も、今は鮮明に聞こえるコウマ。
「お前なりに……一生懸命やったんやな」
勇猛に、向こう見ずに走る彼女の姿を思い出す。今はやや目を潤ませながら、子どもを抱きしめている。
「……行くでエマ。シュウのことは……」
「あ、私が送っていきます! お母さんからも少し話聞きたいので!!」
「ああ……そうなんか。ほな俺もついていくか」
子どもを連れ、住宅地を立ち去る二人――
◇ ◆ ◇ ◆
二人は夕食を摂りに、少し離れたファミリーレストランに来ていた。一仕事終え、シュウイチくんを送り届け、そこからさらに一駅分ほど歩いたせいか、かなり疲れているエマ。
「もう疲れたあああ……」
テーブルに運ばれてきた水の入ったグラス。二人同時に手にとり、すぐに口に運んだ。
「ったく……コウマさんレベルまで稼いでるなら、一駅分ケチらなくてもよかったんじゃ……」
「アホか。今日の飲み代と女代に消えるねん」
「……控えめに言って最低」
疲れからか小言が止まらないエマ。ディナー用のメニューを広げ、ページを早々とめくる。
「……ここに来たのは、ここのメニューが安いからですか?」
「……せや。でも、それだけやない」
コウマは一番安いメニューを指さし、エマに視線を送る。
「オニオンスライスガーリックって……めっちゃサイドメニューじゃないですか。なんでそんなものを」
「夜には豪勢に飲みたいからやな」
「なんてまあケチなことを」
俺の自由や、と呟いてメニューを強引に閉じるコウマ。まだ決めていなかったエマはメニューを開きなおす。そしてそのまま話し始める。
「でも……なんだかんだ言って、下位種の真愚魔も倒したし、人形型も倒した。ヒバナさんの遺した仕事って、案外早く片付くんじゃ……」
バンと、木製の机をたたく音。周囲の客も驚いてこちらを見ているが、すぐに視線を戻す。コウマの右拳が、テーブルの上にあった。
目を丸くするエマ。コウマは唇をかみしめている。
「す、すみません……軽率でした……よね」
「……いや、悪い。お前がヒバナさんを侮辱したわけやないことくらい俺にもわかる。ただ……すまん。俺の器が足りひんかっただけや」
コウマはその表情のまま、エマに頭を下げた。
「いえ、それはすみません! こちらのセリフですよねそれは!!」
エマも頭を下げた。意外な一面を見た気がした。
◆ ◇ ◆ ◇
オニオンスライスガーリックというサイドメニューが到着する。テーブルの上に置かれたそれに、フォークを差し込むコウマ。それを黙って眺めるエマのもとに、グラタンが到着する。
「器の方熱くなっておりますのでお気を付けください」
「あ、ありがとうございます」
店員とのやり取りにも、一切の目をくれることなく、黙々とタマネギを口に運び続けるコウマ。
「あと……鬼型が残ってますよね。どんな愚魔なんですか?」
話題を探したエマが見つけたのは、これだった。
「……ん? 気になるんか?」
「ふぇ!? ええ……まあ」
予想以上に淡泊な反応に、エマはどこか会話のペースを掴めない。
「そうか……お前もなんだかんだで愚魔狩になってもうたんやなあ」
何を言っているんだ。お前が勝手に、とも言えない雰囲気。もうこの店内の雰囲気を悪くするのはごめんだ。
「それよりもやな……あの例の週刊ダイナマイツの記者から頼まれてた仕事はどないしたん?」
「……あ、ああ……忘れてました」
スマートフォンのロックを解除すると、生井ダイトからメッセージが二件入っていたのがわかった。
「……うげえ……催促の連絡来てました」
「誘拐犯の正体挙げたれ」
「え、良いんですか?」
予想とは反し、愚魔を公に出すことに前向きなコウマ。やはりエマはどこかペースを掴みかねている。
「アカンと言う権利は俺にはない。別に守秘義務も無いしな。愚魔狩はみんな、自分が心療内科通いやと思われるのが嫌なだけや」
「あくまで賛成はしてないんですね」
「そうでもないで」
タマネギを平らげたコウマはフォークをテーブルに置いた。
「……言うたはずや。愚魔の存在は世間も知った方がええかもしれんってな」
――言ってたっけ?
エマのグラタンを食べるペースが落ちたのに気付いたのか、コウマは続けた。
「それ食べたら俺、飲みに行く。今日は女の子呼んで飲み会するねん」
「……うわあ……よくそれ平気で私に言えますよね」
そういう話の関連で間接的に怒らせたことあったのに、エマはあの日の怒りをもう一度ぶつけてやりたい気分だ。
「スズメさんとの粗相の件も聞かないと……」
「お前には関係ないやろ」
はぐらかそうとするコウマにエマは目を細める。
「……いやまあ良いんですけど。それなら私、週刊ダイナマイツの方に記事持っていきます。ちょうどシュウくん送り届けたときにお母さんとも少し話せたので」
「そうか、それなら……このあとは別行動やな」
食事を終えたエマ。千円札を財布から取り出し、テーブルの上に置いた。
「おつりは今度返してください。それでは……行ってきます」
「ああ……せやな。そうさせてもらうわ。ほな」
コウマはテーブルに座りながら、エマを見送る。
「……さて、鬼型の報告書、もっかいしっかりと見とかんとな」
――鬼型の愚魔。コウマがエマに詳細を話すのを躊躇うのには、理由があった。
『鬼型の愚魔――通称、浅葱閻魔。8年前に京都に出没した2体の愚魔のうちの1体。愚魔階級は1級。体躯は名前の通り、薄い藍色。推定摂氏マイナス273℃の息を吐きだし、触れた物を凍て付かせる能力を持っている。京都にて餌魔を捕食しており、その力の作用か耐久力に加え、周囲の環境をも氷点下にしてしまうほどの影響力を手にした。活動範囲も広く、昨年度11月、富山にて20名の愚魔狩の殺害および捕食、その2か月後、長野にて当時担当していた愚魔狩、細貝(4段)を始め、7名の捕食。4月に埼玉にて当時担当していた愚魔狩、高岡(5段)を捕食。現在担当不在』
この鬼型の愚魔、浅葱閻魔は、コウマの従えている愚魔、紅蓮閻魔の対にあたる愚魔である。二名の段持ちの愚魔狩が殺害されたことから、一時的にヒバナが担当を引き受けていたが、ヒバナも対峙することなく死んでしまった。
――端的に言うたら、めちゃくちゃ強い。餌魔を一度捕食した経験もあるが故に、エマを見つけたら間違いなく狙ってくる。エマはきっと、俺と任務を一緒にやりたがるやろうから……今回は内密にお留守番させへんとな。
コウマはこの仕事を一人で行う気でいた。しかし、エマを一人にするのもどこか心許ない。
――少し癪やけど、こいつに頼むしかないか。
コウマはある愚魔狩に連絡を取る。電話の向こうで声がした。
『もしもし? コウマ、ちょうどよかったわ。こっちからも連絡を取ろうと思っていたの』
「……お前からの連絡なんかいらんわ。俺の用件だけ聞け」
電話の相手は、蜂野スズメ。蜂野姉妹の姉であり、現在コウマとは反対の立場にいる大常盤派の人間。そして、ついこの前、3段に昇格した。
『随分なものいいね。真愚魔を倒すために共闘した仲じゃない』
「いいか、俺の頼みはただ一つ。ある方法で“鬼型の愚魔”を呼び出す。その時にエマが近づかないようにお前と妹で見張るなり拘束するなりしていてほしい」
『その言い方だと、アナタの大嫌いな大常盤派の人間に、アナタの大事な助手を預けることになるけど、それでもいいの?』
「……やむを得ん」
スズメの意地の悪い質問にも、コウマは毅然として答える。
「……それにお前らは大常盤のじじいよりかはどっちかと言うと釘塚サン派やろ」
『あら、釘塚サンは大常盤派よ?』
「アホか。そこが一枚岩じゃないことくらい、いわゆる無所属派の俺でもわかるわ」
電話の向こうのスズメは、『そういう無所属を、“こっち”の人間は改革派と呼んでいるけどねェ』と冗談めかして笑う。そんな冗談など一切気にも留めず、コウマは続ける。
「今晩、それを決行する。今エマは、週刊ダイナマイツのオフィスビルに向かっている。なるべく俺も離れたところで行うが、何が起こるかわからん限り、こうして頼むしかないんや」
『こっちの用件を聞いてくれたら……お願い聞いてあげてもいいけど』
コウマは笑う。そう、コウマも何となく察しがついていた。蜂野スズメも、なんとかして自分とエマとの接点を欲しているということに。
「アホか。こっちから好条件出すようなもんやろ。是が非でも呑んでもらうで。場所は言うたからな」
コウマは電話を切る――そして、テーブルの上に置かれた伝票を手に取り、席を後にした。
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