空より青いあの海へ

ありもしない、海を探す
佐座 浪
佐座 浪

第七話 火

公開日時: 2021年11月17日(水) 19:45
更新日時: 2022年6月24日(金) 23:03
文字数:4,740

 進むたびに、岩の数が増えていく。一度魔法で地形を見せてもらってはいたものの、実際に見てみると想像よりもかなり険しかった。


 幸いにも、道のりの方はアトラスの的確な指示で安全に進めてはいる。だが、彼の顔を見るたびにさっきの事が頭を掠めて、心の方はそうもいかなかった。


「——そろそろ止まるか」

「どうかしたの?」

「もうすぐ日が暮れるからな。暗闇の中進むのは、危険だろう」

「えっ!? もうそんな時間!?」


 周りを見渡してみれば、辺りは茜色の綺麗な夕日に包まれ、空の端はゆっくりとその色を黒に染めつつあった。


「……お前は、歩きながら寝ていたのか?」


 呆れたような声のアトラス。さっきの事をずっと考えていた、と言う訳にもいかない。


「んー、ごめん。ちょっと考え事してた」


 こうなっては、誤魔化すしかない。全くの嘘をついている訳ではない。考え事をしていたのは事実なのだから。大丈夫の筈だ。


「分かっていると思うが、油断は命取りだ。俺だっていつでもお前の事を見ていられる訳じゃないんだぞ?」


 大丈夫ではなかった。注意を怠るのはこれで二度目だ。さっきの事に気を取られるあまり、その事に気付かなかった。何度も同じ事を繰り返すに自分に、少し腹が立った。


「本当にごめん。今から気をつける」

「ならいいんだが……万が一俺に何かがあったとしても、お前が自分で身を守れるように——」


 ——胸を、握りつぶされたような気がした。アトラスの言っている事が、頭に入ってこない。


 彼に何かあったら、居なくなったらなんて、聞きたくない、考えたくもない。その言葉を聞いただけでも、怖気が止まらない。


「——ヴァルカ?……おい、しっかりしろ! ヴァルカ!!」

「……ねぇ、アトラス。アトラスは……ずっと私の側にいてくれるよね? 私を、見捨てたり、しないよね?」

「……! 大丈夫だ、ずっと側にいる。心配するな」


 その言葉に、心の底から安堵した。


「ありがとう、アトラス」

「……気にするな」


 そう短く言ったアトラスの顔は見えなかったけれど、この人と出会って本当に良かったと、心の底から思えた。


「そういえばさ、準備とか、何かしないといけない事とかってないの? あったらこれから私も出来るように、教えて欲しいんだけど……」

「……ん? ああ、いや特には無い。地形がよほど特殊なら、何か考えなければならないかもしれないが、これなら特に何かがある訳ではない。強いて言うなら……あ」


 そこで、何故かアトラスの表情が少し明るくなる。彼は奇妙にも何かを小さく呟き、納得したかのように首を縦に振っていた。


「どうしたの? 何か上機嫌になるような事でもあった?」

「この後にする作業が一つあってな。それを是非お前に見せたいんだ」

「見せたいもの……? 気になる、気になる! 見せて!」

「待っていてくれ」


 これまでの通り、荷物の中から何かの道具が取り出される。今度のそれは、渦を巻くような模様が彫り込まれた、小さな空の器のようなものだった。


「それで、それで? 今度はどんな風になるの?」

「少し離れていろ」


 アトラスはその道具を地面に置き、実に静かに魔力を込め始めた。


 水を注いでいるかのように渦のような溝を魔力が駆け巡り、器の全てを昇りきった。


「——灯せ、セントエルモ」


 これ以って闇が消え、光が満ちる。目の前に突然現れた何かに、私の目は釘付けになる。


 アトラスの瞳に勝るとも劣らない程に綺麗なものが、人生を根底から塗り替える驚きが、そこには在った。


「——アトラス。これは何? 何ていう、名前なの?」


 気づけば何よりも先に、この不思議に揺らめき、暖かい光を放つ何かの名前を尋ねていた。


「火だ」

「ひだ?」

「違う。火、火だ」

「ひ……?」


 何を言われたのかが、理解出来なかった。もう一度聞き返してみても、それは変わらない。


「そう、火。これがお前の持っている刻印が司る、太古から変わらぬ自然の形。今目の前にあるのは、紛れもなく火なんだよ」


「いや……嘘だよ、そんな筈ない。火は危険で、役に立たなくて、存在しちゃいけないもので……それが、こんなに綺麗な筈ない。本当は、もっと素敵な、違う名前があるんでしょ……? ねぇ、アトラス——」


 ——どんな言葉を口から出したって、本当は分かっている。彼の言っている事が、嘘でない事くらい。


 だって、その響きを聞いた時に、自分の中の何かが強く反応したのが分かっていたから。


 でも信じられない。飲み込めない。自分という存在が、目の前の事実を、アトラスの言葉を拒絶している。


「……ヴァルカ。どうか、落ち着いて聞いて欲しい」


 静かで澄んだ瞳が、心の底にうずくまっていた素直な私を見た。


「確かに火には、何もかもを壊してしまえる力がある。それは事実だ。だが、火には他の自然の形が持つような、人の営みを促す力もある」


 どこかで、同じような事を聞いたような気がする。昔の自分が笑っている声が、また聞こえる。


「お前も、聞かされた事がある筈だ。大昔、まだ水があった頃に栄えていた文明では、火は凍えや闇を打ち払い、決して変形する事のなかった金属を道具へと変え、人の生活に欠かせないものとして、常に営みの側にあった」


 やはりどれも、どこか聞き馴染みがある。ずっと憧れて、羨んで——そして憎んでいた、遠い遠い世界の話。


 きっとこれは、現実との差に耐えられずに、いつしか信じたくなくなって消してしまった、思い出の断片なのだろう。


 でも、今は違う。私は火の事を、この人の話を信じたい。かつての自分、未知の世界に心を躍らせていた頃と同じように。


「それにな。水だって火と同じように、危険な面も併せ持っている。何にだって二面性はあるんだ。水は綺麗で、火は汚い。そう決まっている訳じゃない。なんであろうと、綺麗なものは綺麗でいいんだよ。ヴァルカ」


 綺麗なものは綺麗——か。確かに、そうなのかもしれない。


 また反省だ。せっかく自分の足で人生を歩むと決めたのに、今までの常識に囚われていては、何一つ変わらないではないか。


「じゃあ……これがあの火だとしても、綺麗って言って良いのかな?」

「勿論だ」


 その言葉を聞きながら、息を深く吸い込む。そして、自分の素直な気持ちを、真っ直ぐに吐き出してみた。


「——綺麗。すごく綺麗だよ。こんなの見たことない。月より、太陽より暖かくて、夢を見てるみたい。これが嫌いだなんて、ずっと損してた。見せてくれて、ありがとう」

「気にするな。どうせ、物のついでだ」


 ぶっきらぼうにそうは言うものの、灯りに照らされ、闇の中に浮かび上がったアトラスの表情は、暖かくて、やっぱりとても優しそうに見えた。


 ——日の沈みきった荒野の内に、灯が一つ。昼と変わらぬ明るさを前にまた、感動が込み上げてくる。


「火って、本当に凄いね。夜ってこんなに明るくなるものなんだ。今までずっと、日が沈んだら寝てたけど、これなら夜も——」


 それで、気が緩んだのだろう。静かな荒野に、腹の虫が盛大に鳴り響いた。


「ん?」

「……あ、ははは」


 顔が赤くなっているのが自分でも分かる。もう刻印が浮かんでから随分と経つ身だというのに、この体たらくは少々、いやかなり恥ずかしい。


「腹の虫か。元気な証拠だな。そういえば俺も、腹が減ったな。何を食うか……とは言っても、選択肢がある訳でもない。昼間の鳥でも食うとしようか」


 アトラスが流れるように、箱の中から昼間の魔獣の肉を取り出した。


「いつの間に……」

「お前が息を切らしていた間にだ。全て捨てていくのは、勿体なかったんでな」


 なんて手際が良いんだろう。本当に、全く気がつかなかった。


「……って、あれ? それ食べれるの? 流石に干したりする時間は無かったよね?」

「干さなくても、焼けば食える」

「やけば? やけば……焼けば……えっと、火を使うってことだよね?」


 小さく頷いた後、アトラスは僅かに血の滴る紅い肉を棒に刺し、それが火に当たるように棒を地面に突き立てる、


 するとすぐに、腹を直接掴むような良い香りが鼻に届いた。


「……美味しそう。もう、食べて良いのかな? 良いよね!」

「まだだ。今食べると命に関わる。きちんと火が通るまで、焦らずに待つんだ」

「えぇー……」


 ぐるぐると喧しいくらい腹が鳴る。命の危険なんてどうでもよくなってしまうくらい、とにかくお腹が空いた。これが出来上がるまで、手を出さずに待っていられるだろうか。


「はぁ……まだかな? まだ……かな……?」


 水を口にして、必死に空腹に耐える。呟く以外にやる事も特に無く、右に左に、ゆらゆらと揺れる火をただ眺めてみる。


 それは暖かくて、明るくて、優しくて。逸る心を、頭でも撫でるかのようにそっと落ち着かせてくれる。


 不思議なものだ。ほんの少し前まで、忌み嫌っていた筈のものに、今は安心感すら覚えているのだから。


「ふむ……もう少しか……?」

「まだ食べちゃ駄目……な……の……?」


 ——岩に座り込んで、焼き具合を見ていたアトラスの背後。そこに、見覚えの無い少女の姿があった。


 私と同じか、それより少し幼いくらいだろうか。短く切られた、闇に溶け込むような黒髪に、火よりもさらに紅い瞳。格好も至って普通。これだけなら、子供みたいに声を出して驚くだけで済んだだろう。


 彼女のもう一つの特徴。火に照らされ、より明確に見える筈の少女の華奢な身体は、信じ難い事に僅かに透けていた。


 驚きのあまりに、身体が動かせない。声が出せない。固まる私を、音も無く少女の紅い瞳が貫いた。


「——っ!」


 確かに目が合った。その筈だ。その筈だったのだが、次の瞬間には少女の姿は跡形も無い。夢から醒めたかのように、消えてしまったのだ。


「よし。もう良いだろう。焼けたぞ」

「わっ!?」


 上機嫌なアトラスの声で、はっと我に返る。


「どうした? 空腹でぼうっとしていたか?」

「いや! 今、今そこに——」


 いや、やめよう。きっとお腹が空き過ぎて、ありもしないものでも見たのだろう。それよりも、このどうしようもない空腹を解消する方が今の私にはずっと大事だ。


「ん?」

「……ごめん、なんでもない。それ、もう食べて良いんだよね?」

「勿論。熱いから、火傷に気をつけろよ?」

「分かってる。いただきます!!」


 棒を勢い任せに引き抜き、肉にかぶりつく。


 その瞬間伝わる、乾いていない肉の味、食感、匂い。どれもこれもが素晴らしくて、生きていると実感出来る。


 今日だけで何度目だろうか。言葉で表しきれないくらいの感動を味わったのは。


「あぁ……美味しかった。もうなんかさ、なんて言って良いか分からないよ。言葉って、意外と不便なのかもって思っちゃった」

「……もう食べきったのか。早いな」

「あんまりにも美味しくって……ついね」


 気がついたら、手には棒だけが残されていた。生まれて初めて食べた、焼いた肉の味は二度と忘れないだろう。


「まあ……満足そ……何よ……」

「……あ、れ?」


 突如、アトラスの声が途切れ途切れになる。いや、声だけでなく、姿までもが一瞬消えたように見えた。


「ひょっとしてお前、眠いのか?」

「……眠い? あー……確かに……そう、なのかも」


 言われてみて初めて、自分が眠気に襲われているのだと分かった。


 考えてみれば、いつもならもうとっくに眠っている時間。その上、朝、昼とあんなに忙しかったのだ。眠くならない筈がない。


「眠いのなら素直に寝ろ。気を使う必要はない。俺も、もうしばらくしたら寝ることだしな」

「ありがとう。じゃあ……おやすみ、アトラス」

「良い夢を、ヴァルカ」


 リュックサックを枕に、身体を横にする。重たい瞼をそっと閉じると、今日あった色んな出来事が、走馬灯みたいに蘇ってきた。


 もう考えるのも億劫なくらい眠たくて、一つ一つをゆっくり飲み込む事は出来そうにないけれど、その必要は無さそうだ。


 ——だって、とっても楽しかったから。

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