村を出てすぐに朝日が差し込み、降りしきっていた雨は止んだ。遠くから見て初めて分かったのだが、不思議な事に、雨雲が空を覆っていたのは村の上だけ。
連なった雲が、夜明けの空を突き破りそうな程高く高く伸びている様は、いつまで見ていても飽きない、惹きつけられる光景だった。
「どうした?」
「ううん。大丈夫、大丈夫」
「……そうか」
アトラスのその言葉で、自分の足が止まっている事に気がついた。無理についていくと言った以上、自分の都合で彼の旅を止める訳にはいかない。
自分の好奇心にそっと蓋をして、歩を進める。隣に居るアトラスは相変わらず無表情で、怒っていないか不安になる。
何か間を持たせられるような話をしたいのだが、いざ考えてみるとこれといった話題が思いつかない。
聞いてみたい事が無い訳ではない。彼が旅をする目的や経緯は、是非聞いてみたい所ではある。
ただ、それは決して好奇心で聞いていいものではない。だが、それとは別に聞いておかなければならないような気もする。
そんな考えの間で右往左往している内に、何を聞いていいか分からなくなってしまったのだ。
「えっと……あの……うううう……そ、そうだ! 今ってさ、どこに向かってるの? まさか、当てもなく歩いてる訳じゃないでしょ?」
結局行き着いたのは、これから向かう目的地を聞く事だった。
「……そうだな。お前にもこれを見せておくか」
そう言ってアトラスは、朝日を反射して輝く、小さな円形の何かを取り出す。
「何これ?」
「まあ見ていろ——」
「え——?」
何かが呟かれると、その円形の何かが淡く輝いた——かと思えば、暗く大きい何かが泥水のように溢れ出して、世界ごとそれに呑み込まれた。
地面が消え、青空が消え、放り出されたそこに広がっていたのは、数多の星が揺らめく夜空。
「何……これ……!?」
あまりに現実離れした光景に、もがくでも、地面を探すでもなく、ただただ驚く事しか出来なかった。
「我は希望。導きの光」
「——!」
突如、夜を揺るがす声が響いたかと思えば、次の瞬間には全て元通りになっていて、目の前には神秘的な青い光の線で構成された、円形の地図のような物が浮かび上がっていた。
「——これの見方を教えておく。まず、この中心の赤い点が現在地、そして、この青い線が地形や建造物を表している」
異常な光景だったが、アトラスの様子を見る限りでは、何も気にしていないようだった。
彼の知識は広く、私の知らない事ばかり。隣に立つ者として、いつか追いついてみせる。
気を取り直して、彼に言われた通りに目をやれば、赤い点を中心に広がる青い線は、目の前の景色をそのまま小さくしたのかと思える程、高さや距離、形までもを完璧に再現していた。
再び好奇心に押され、隅々までそれを見通すと、建物と思わしき青い線が密集した場所が目に入った。
「ん……じゃあ、ここには建物があるって事?」
「そうだ、理解が早いな。そして、この配置だと、おそらくそこに村がある。村があれば、そこに情報があるかもしれない。ひとまずはそこを目指す」
また同じように何かが呟かれると、青い線が空中で解け、淡い光を遺して消えた。そしてそれを仕舞うと同時に彼は歩き出し、私も続いた。
「それで、ここからどれくらいかかるの? 夕方くらいには着く?」
「安全に行くとなると……おそらくは二日程かかると思うが」
「二日!? 嘘でしょ!?」
そう言ったものの正直信じたくは無かった。それが普通なのか、そう考えもしたが、まだそう思う事は出来なかった。
「残念ながら嘘ではない。先は長いからな。安全に、かつ丁寧に可能性を一つ一つ潰していくしか方法は無い。着いてみれば廃村だった、なんて事もあったが」
「あったが、じゃない! 結構大変な事でしょ、それ! そこまでして一体どうして旅なんて——あ」
しくじった。あれ程躊躇っていた筈なのに、動揺した所為か、胸の奥底に沈めた筈の疑問を口から出してしまった。
慌てて口を押さえるも、時既に遅し。隣を見れば、足を止めたアトラスの、澄んだ目が真っ直ぐにこちらを捉えていた。
先程の比では無い程気まずかったが、この均衡を自分から破る事は出来そうになかった。
「——そうだな、後で時間が出来た時にでも話す。今は歩く時だ」
「う、うん」
悠久にさえ思われる沈黙の後、アトラスは静かにそう言った。喉の奥から出かかった言葉は色々とあったものの、底の見えない、重く暗い何かに阻まれて、どうしてもそれ以上踏み込めなかった。
再び歩き出した彼の隣に、遅れないように小走りで並ぶ。でも、どうにもこうにも彼を見る事が出来なくて、逃げるように空を見上げた。
空高く浮かぶ雲達は、何も言わずに現れては消え、現れては消えを繰り返し、まるで今の自分を見ているような気分にさせる。
かといって、慌てて視線を地上に戻しても、舞い上がっては消えていく砂埃が雲と同じように見えて、結局真下を見て歩くしかなくなってしまった。
「……待て」
「え?」
しばらくはそうしていたのだが、アトラスの低い声が私の足を止めた。恐る恐る彼の方を見ると、彼は辺りを見回しながら、耳を澄ませていた。
「……今、何か聞こえた。右方向……地中か? 遠いが、段々とこちらに近づいている」
「どういう音?」
「何かが這いずっているような、妙な音だ」
「それって……!」
知識や経験が豊富な訳では無いが、生まれてからずっとこの地で暮らしてきたのだ。その音の正体には覚えがある。
「アトラス! 足下に注意して! 多分それ、魔獣が地面の中を移動してる音だと思う!」
この辺りには、地面の中を泳ぐように移動する魔獣が生息している。
警戒心が強く、集団に襲いかかる事は少ないが、こんな風に少人数で村の外に出ようものなら、襲われる事も良くある。
注意を怠っていた。ここも危険地帯。自分の身は、自分で守らなければならないというのに。
「ふむ、昨日言っていた奴か」
「……うん。ほら、あの土煙」
魔獣が地中を移動する際に僅かに立つ土煙を、遠くで捉えた。奇襲を得意としている魔獣にはよくある事だが、戦闘を得意としていない。落ち着いて迎撃すれば、対処出来る。
それにしても、なんて優れた耳をアトラスは持っているんだろう。その魔獣は非常に静かに地中を移動出来る。それをあの距離から察知するなんて事は、人間技とは到底思えない。
それとも、これくらい出来ないと旅なんて——駄目だ。今はそんな事を考えている場合じゃない。頭を振って雑念を振り払い、腰に提げたナイフを手に取る。
いくら身構えていても、地面から飛び出してくる瞬間を見落とせば、こちらがやられる。これ以上、迷惑をかけるわけにはいかない。
「来るよ! アトラス!……アトラス?」
「少し……下がっていろ。あまり、動かない方がいい」
確認の意味合いも込めてアトラスの方を向くと、彼は武器を手に取る事も無く、地面を注視していた。
何をしているのか。そう聞き返す間も無く、鋭い輝きを放つ牙が大地を突き破った。
「っ!」
反射的にナイフを振るってしまったものの、仕留めるには遅過ぎた。なら、防御に徹して反撃の隙を——
「——凍れ」
——その刹那に何が起きたのか、すぐには分からなかった。
気づけば目の前には、全身を白く輝かせ、身動ぎ一つせずに固まったままの、魔獣の姿だけがあった。
お読み頂き、ありがとうございました!
次話
→第六話 遠い果て
読み終わったら、ポイントを付けましょう!