そうして日も陰り、皿に入った果実が一つ残らずなくなった頃の事。
ガレアとアトラスが、同時に席を立った。
「あれ、どうしたの? 父さん」
「客人と、夜風に当たってくる」
「……もう遅いからな。何があるかも分からねぇ。気をつけろよ、親父」
「分かっている」
「気をつけてね、アトラス」
「心配するな。すぐに戻る」
二人が、外に出ていく。おそらく、昼間に言っていた話の事でだろう。
「んー……なんだろ。秘密の話でもあるのかな?」
「まあ、だろうな。嬢ちゃんは、何か知ってるか?」
「なんかしし……? の話だと思います。私には、さっぱり分かりませんでしたけど」
「ああ、神さんの信者連中の事か」
「——そうだ! 思い出した! 五神教だ!!」
レジナルドの一言で、ピンと来た。祖母から聞いた話の中にあった、五元素の神霊を信仰する宗教——その名が確か、五神教。
そして、彼らには『獅子』という通称があった。その昔、自由と勇気の象徴とされていた魔獣の名だ。
「……そういや、そんな名前だったか。嬢ちゃんとこに来た奴も言ってたのか?」
「私はおばあちゃんから——え? 来た奴ってどういう事です?」
「あれ? なんか、白っぽい服を着てて……透明な鉱石の杖を持った人、来た事無い?」
「無い……と思いますけど……」
一応記憶を遡っては見たものの、メルの言うような人間どころか、アトラス以外に村に人が来た事すら無い筈だ。
「じゃあ無ぇよ。あんなのが来たら、二度と忘れられねぇだろうからな」
「……何か、あったんですか?」
尋ねてみると、レジナルドが僅かに顔を顰め、メルと私の顔を交互に見た。
その度に、茶色の瞳から光が消えて、無機質なものへと変わっていく。
「——衝撃だったぜ。そいつはな、ある日突然村にやってきた。赤黒い染みのついた服を着た、ボロボロの男だった。当然村は大騒ぎ、槍を持ち出して、取り囲んだ。だが、そいつは驚くどころか、身じろぎ一つしなかった。あまりに大人しいもんだから、皆を代表して親父が尋ねた。一体、何をしに来たのかってな。そしたらそいつは——」
彼はそこで、一息置く。その表情は、一層険しくなっていた。
「跪いて、空を仰ぎ始めたんだ。親父の問いも、訝しげな視線も、何一つ気にせずに。そうして言いやがった。貴方達にも、神霊の加護がありますように……ってな」
「加護……?」
「意味分かんねぇだろ? 俺らも呆気にとられてた。したらそいつは続けて、自分は神霊とやらのおかげで水に不自由なく育ったと言いやがった」
「水に不自由無く……!」
聞き逃せない言葉だ。もしそれが本当なら、ついそう考えてしまう、甘い誘惑だ。
「……でも、誰も信じなかった。私も、レジーも、父さんも、他の皆も。だってその人は今にも死にそうなくらい飢えていて、とてもじゃないけどそんな風には見えなかったから」
「その上、自分は選ばれたのなんだと言って、水を出しても飲もうとすらしねぇ。結局そいつは、枯れかけの喉で神霊への賛辞と信仰の素晴らしさを好き勝手叫んだ挙句に、村を出て行ったのさ」
レジナルドは首を振った。およそ、さっきのとはかけ離れている、乾いた笑みを浮かべて。
「それは……」
「な、すげぇだろ? その後にも何回かそいつららしき奴が来たんだが……気性の荒い奴、穏やかな奴、賢そうな奴、馬鹿そうな奴、行動とか性格の違いはあっても、元は一緒だった。神霊は偉大だ、信じてさえいれば幸せになれる……ってな具合でな」
「父さんはそんなの気にする事は無いって、皆に言い聞かせてたけど、私は怖かった。上手く言葉に出来ないけど……本当に、怖かった」
メルが、肩を震わせている。私も、何を言っていいか分からなかった。軽い気持ちで尋ねるべきじゃなかったと、後悔さえしている。
「——戻ったぞ」
そんな沈んだ空気の中、ガレアとアトラスが戻って来た。
「おかえり、アトラス」
「……部屋に戻るぞ。明日も早いからな」
「う、うん……あ、おやすみなさい」
「おやすみ。また明日ね!」
歩いて行ってしまったアトラスに続いて、部屋に戻る。
薄暗くて表情ははっきりと見えなかったけれど、アトラスの声も何処か沈んでいるように聞こえた。
「ねぇ、アトラス」
「どうした?」
「いや、えっと……ごめん、何でもない……」
「そうか。俺はもう寝る。お前も寝た方がいい」
何も言い出せないままに、アトラスが目を閉じる。起こす事も出来ず、同じように寝床に身体を横たえてはみる。
でも、眠れない。やっぱりと言えばそうなのだけれど、楽しかった事とそうでなかった事が頭の中をグルグルと回っていて、眠りに入れない。
しばらくは目を閉じて大人しくしていたが、どうにも落ち着かなくて、彷徨うように部屋の外に出た。
皆寝てしまったのか、嫌に静かでうすら寒い。外に出て、空でも眺めようか考えていた時、背後に気配を感じた。
「——誰!?」
「おおっ!? 俺だよ、落ち着け嬢ちゃん。そんな物騒なもんを突きつけないでくれ」
暗くてはっきりとはしなかったが、そこに居たのはレジナルドだった。何に驚いているのかと思ったが、すぐについ癖で抜き払ってしまったナイフの事だと気づいた。
「あ……ごめんなさい」
「気にすんな。それより、こんな所で何してんだ? やっぱり、嬢ちゃんも寝れねぇのか?」
頷くと、レジナルドは無言で入り口を指差した。ついて来い、という事なのだろう。
外はもうすっかり日も暮れて、夜の時間。空にポツポツと浮かんだ、月にかかる雲はまだ見慣れない。
「怒られるからいつもは寝ちまうが……俺は夜のこの時間が好きだ。落ち着く」
「……暗過ぎなければ好きです」
「なんだそりゃあ? 夜は暗いもんだろ」
レジナルドは笑った。いくら火の刻印が疎まれていなくても、火があれば、とは言えなかった。
「——俺はな、神って奴が心底嫌いなんだ」
唐突な言葉だった。思わず見た、冷たい光に照らされたレジナルドの顔は、とても寂しそうだった。
「さっきの話には、続きがある。最初に村に来た男の話だ。それからしばらく経ってほとぼりも冷めた頃、俺らは狩りに出かけた。いつもの通り荒野を散策して、何かに群がる魔獣の群れを見つけた。親父の指示で囲い込んで、そいつらを仕留めきった時……見ちまったんだ」
何を、と声に出すまでも無く、話は淡々と続いた。
「——死体だよ。奴らが群がってたのは、その男の死体だった」
「……襲われたんですか?」
「さあ? 襲われて死んだのか……飢えて死んだのか、それも分からねぇくらい傷んでた。確かだったのは、そいつが最期に両の手を合わせてた事、傷一つ無く綺麗に残ってた死に顔が、これ以上無いくらい幸せそうだったって事だ」
「幸せ、そうに……」
「実際、そいつは幸せだっただろうぜ。俺には到底理解出来ねぇがな。ただ俺はその時から、神霊って奴が嫌いになった。俺の目には、命を懸けても呆気なく終わるって言われてるようにしか思えなかった。一体どうしたら、こんな希望の無ぇ世界が作れる? どんな外道なら、作っておきながら放っておける? なあ、教えてくれや。神さんよ」
レジナルドが、空を見上げる。あまりに静かな叫びだった。
「……さて、くそつまんねぇ話はこれにて終わり。そろそろ眠くなってきた頃だろ。あいつが心配するから戻んな。俺ももう戻る」
「あ……レジナルドさん。明日は——」
「ああ、雨らしいな。気まぐれな神さんの、お遊びの時間だよ」
そう吐き捨ててレジナルドが戻っていくのを、目だけで追う。
息が詰まって、動けない。頭を強く殴られた時のように、視界が揺れている。
幸せという言葉は砂のように、雨という言葉でさえ、乾ききっているようにしか思えない。
——でも、だからこそ、笑った。どれだけ苦しくても、嘘っぽくても、色んな感情を込めて、私は笑みを作った。
心底嫌っている常識を嘲るように、夢に見た未来に示すように。
大丈夫、大丈夫。私にはアトラスが居る。明日の天気だって、神の気まぐれなんかじゃない。
歩き続ければきっと、辿り着ける。
いいや。一緒なら、どんなところにだって辿り着いてみせるから——
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