目が覚めたのは夜明け前。何かに額を叩かれて、ゆっくりと身体を起こす。
額を触ってみれば、また濡れていた。頭上を覆う雲からポツポツと降り始めた雫の中、ぼんやりと空の端から差す朝日を眺めて、考え事に耽る。
昨日、今日と二日続けて雨。まるで雨に追われているかのようだ。
「なんだ、起きていていたのか。おはよう、ヴァルカ。よく眠れたか?」
一昨日の夜、アトラスは朝に雨が降る事を見事に当ててみせた。
彼を初めて見た時、雲を連れているように見えたのは、もしかしたら錯覚でなかったのかもしれない。
「……うん」
「そうか。あと、早速で悪いんだが、もう少ししたら出る。まだ寝ていたいだろうが、歩くぞ」
「アトラス、ちょっといい?」
「……ん? どうした、そんな神妙な顔をして」
作業の手を止め、アトラスがこちらに向き直った。
「一つ聞きたい事があるんだけど」
「なんだ?」
この人なら、偽りの無い自分を受け入れてくれる。そんな曖昧な確信をもって、湧き上がった疑問を躊躇う事無くぶつけた。
「この雨ってさ、アトラスに何か関係ある?」
僅かに目を見開くアトラス。明らかに何か知っている素振りだった。
「……ある、と言ったらお前はどうする?」
「知りたい、って言うかな」
静かに視線が交錯する。空気は軽い訳では無かったが、決して息苦しいものでも無かった。
「皆、お前くらい素直なら良いんだがな。確かに、関係はある。雨を降らせる力が、俺には宿っているらしい」
「……らしい?」
「情け無い事に、未だ俺にも良く分かっていないんだ。すまないな」
謝られてしまった。無視するという事も出来た筈なのに。
「ううん、こっちこそごめん。こんな大事なことを答えてくれて、ありがとう」
「……あと、念の為に言っておくが、今の話は誰にも言うなよ? 他の連中に知られたら、面倒だからな」
当たり前の話だろう。この世界で水は命よりも大切なものだ。どういう原理か分からないにしろ、雨を降らせる事が出来るなんて知れたら、どんな事をされるか分かったものではない。
「分かってる。秘密にするよ」
「頼む」
アトラスに宿っているだろう、雨を降らせる力。文字通り、とんでもないものだ。
もしかしたら彼が無表情なのは、私とは全く違う理由で人扱いされてこなかったからなのかもしれないと、少し思ってしまった。
「この力で、世界を変えられたら良かったのにな」
この一言ではっとした。確かに、雨を降らせる事が出来るのなら、世界に水を取り戻す事も出来そうなものだが。
「そんなに凄い力でも、駄目なの?」
「ああ、駄目だ。こんな力じゃ駄目なんだ。それだけは、はっきりと分かる」
悔しそうに呟くアトラス。その力では足りないのか、彼が知らないだけなのか、或いは他に理由があるのか。いずれにせよ、その力で彼の夢を叶える事は出来ないらしい。
「でもアトラスは、私の世界を変えてくれたよ? もっとさ、自信持ってもいいと思うけどなぁ」
「……そう言ってくれるのはありがたいんだがな。さて、そろそろ出るぞ。準備は出来たか?」
「え? いや、ちょっと待って……!」
慌ててリュックサックをひっ掴み、朝の支度を急いで終わらせる。その間にアトラスは、例の道具で地形の確認をしているようだった。
「終わったよ……」
「よし、出るぞ」
「了解!」
今日もまた、楽しい一日が始まるのだと思うと、わくわくが止まらない。
歩を進め、雨雲の覆う空を抜ける頃には、周りはまた、平らな荒野へと戻っていた。
今までもよく見た、代わり映えのない風景だが、僅かに自生している植物が多いような気がする。
「……植物が多い。どうやらこの辺りは、比較的雨が多いらしいな」
「場所によって違うの?」
「多少はな」
「ふーん……じゃあ、この辺りの人達は、水の事で困ったりしてないのかな?」
僅かに嫉妬を込めてそう言ったが、アトラスは首を横に振った。
「いくら雨が多いといっても、ほとんど誤差だ。水に困らない程雨が降る場所なんてほぼ無いぞ」
「あぁ……そうなんだ。やっぱり何処も乾いてるんだね、この世界」
自分の器の狭さと、救いようの無い世界に反吐が出そうな気分になる。
「嫌な常識だが……いつか打ち砕く。今日のこの一歩が、その礎になる筈だ。落ち込んでいる暇があったら歩くぞ、ヴァルカ」
「お見通しかぁ。ま、それもそうだね。悩む前に歩こうか、アトラス!」
「その意気だ」
なんとか元の調子を取り戻し、旅路を突き進む。進むごとに少しずつ、起伏と植物が多くなってきているようだ。
「あ、それはそうとさ。あとどれくらいで目的地なの? 昨日のあれ、使ってたでしょ?」
「このまま何事も無ければ、昼過ぎくらいには着くと思うんだが……」
何やら含みのある言い方だ。気にかかるような事でもあったのだろうか。
「……そんなに心配そうな顔をするな。今のところ、別段何かがあった訳じゃない。ただ、いつ何が起こるか分からないからな。用心するに越した事は無いだろう?」
気のせいかもしれないが、アトラスはいつ起こるか分からないもの、というよりは確実に来る何か、を恐れて居るようにも見えた。
それが、昨日のものと同じかどうかは分からないが。
「……何かあったら、すぐ言ってね。私にも出来る事があるかもしれないから」
微かに笑い、アトラスが頷く。それからは淡々と荒野を歩くだけの時間が続いた。
いくら警戒しているとはいっても、心の何処かではこのまま何事も無く、目的地に辿り着けるのだと思っていた。
それが崩れさったのは、日が高く昇った頃の事。とある音を聞いた時だ。
「——!」
「……ん? 何だろう、今の。叫び声……かな? 聞こえた? アトラス」
「人間の叫び声だな、数も多い。一応身構えておけ。おそらく鉢合わせる」
「……分かった」
腰に提げているナイフに、手をかける。
アトラスの声が初めて会った時のように冷たくて、緊張感がひしひしと伝わってくるようだった。
やがて見えて来た光景。武器を携えた人間が連携を取って、魔獣を追い込んでいるそれには見覚えがある。
「狩り、みたいだね。この辺だと、今がそういう時期なのかな?」
「……あまり、悠長に構えている訳にはいかないらしい。俺から、絶対に離れるなよ」
何を言われているのかは、すぐに分かった。
魔獣を仕留め、喜びを分かち合っていた彼らだが、私達の姿に気づいたようで、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
だが、その目つきはお世辞にも穏やかとは言えない。あれは今まで散々感じてきた、敵を——獣を見る時の目だ。
先頭に立つ数人の男達が、牽制するように槍を突き出す。アトラスは杖を握ったまま動かなかったが、何かあれば、すぐ動けるような体勢をとっていた。
「——我々とて、お主達に害を加えたい訳では無い。妙な真似はせんで貰えるだろうか」
男達の後方から重たい声が響く。隊列が割れ、露わになったのは、この集団の長らしき、白髪混じりの短い黒髪に、立派な髭を蓄え、がっしりとした体格を持つ声の主の姿だった。
「お前達の言葉の全てを信じる訳にはいかない。それ以上は近づくな」
「なんだと——」
「お前——」
「——やめんか」
彼らが構える武器よりも遥かに鋭い声を発するアトラス。怒号が飛んだが、長はその言葉を聞き入れたのか、彼らを制し、歩みを止めた。
「すまんな。さて……見たところ、お主らは『蛇』ではないようだが……いや、前置きは無しだ。単刀直入に問おう。『獅子』か?」
「へびに……しし……?」
どちらも、あまり聞き馴染みの無い言葉だ。だが、獅子の方は昔に聞いた事のあるような気もする。
「どちらでも無い。ただのはぐれ者だ」
「淀みなし。ふむ……やはりか。ならば、お主らは一体何者だ? この荒野を歩く者など他には……むぅ、まさか……?」
何か思い当たった事があったのか、長は導かれるようにゆっくりと、雲の浮かぶ空を見上げた。
「雲が、浮かんでいる。根も葉もない、戯言だと聞き流していたが……お主、もしや噂に聞く——」
「俺の事も知っているか。なら尚更、お前にこれ以上語れる事など無い。そこをどいて貰おうか」
二人の間に流れる空気が痛い。目の前で陣を組んでいる男達にもそれは伝わっているようで、微かに槍が震えていた。
「まあ、待たんか。これ以上、余計な詮索はせん。非礼を詫びる代わりと言ってはなんだが、儂の家に来ないか? 『獅子』の話、お主も聞きたかろう?」
「……っ!」
「が、ガレアさん! それは……!」
「こんなよく分からない他所者を人間を村に入れるなど……! ついこの前も——」
長の言葉に、男達がどよめく。当然の事だろう。アトラスも驚いたようで、僅かに声が漏れていた。
「落ち着け。この者らは『蛇』ではない。見れば分かる筈だ。それに、旅人を無下にするようでは、先祖に顔が立たん」
「う……いや、それは……そうなのですが……!」
「しかし……! 死人に立てる顔など!」
男達と長が、激しく言葉を交わす。声を荒らげる者までが出ていた程に。
「……お前はどう思う、ヴァルカ」
そんな騒ぎの中、彼らに聞こえないような小さな声で、アトラスが問いかけてきた。
「え? 私? えっと……ごめん。よく分からないから、決めて欲しい……かも」
「なんでもいいんだ。何か思った事は無かったか?」
「そんな風に言われても……うーん……」
言われるままに、おぼつかない頭を必死に回して、さっきまでの様子を思い出してみる。
察するに、ガレアはアトラスの事を、それもおそらくは雨の能力の事まで知っている。なら当然、村に呼ぶのは水が目当ての事だろう。
彼の言葉を信じても良いのだろうか。普通に考えれば、信じるべきでは無いのだろう。身に危険が迫るのは目に見える。ただ——
「ごめん、やっぱり分からない。分からないけど……あの人、嘘を言ってるようには聞こえなかったし……優しい目をしてたと思う」
嘘はつけない。彼の目からは確かに、アトラスのそれに似た、優しいものが感じられた。それは間違いなかった。
「——そうか」
一瞬、アトラスが笑った。そんな気がした。
「おい、村の長……ガレアといったな。この子も俺と同じように、客人として扱ってくれるのか?」
「それも保証する」
「俺達は明日に村を出る。それでも良いか?」
「無論」
村の長ガレアの返答は、実に淀みのない、水のようなものだった。
「ならば、大人しく呼ばれるとしよう。お前もそれでいいか?」
「……うん」
どうやら自分の言葉で決まってしまったようで、何か言いようの無い不安を覚えたのだが、ここはアトラスの判断を信じよう。
「決まったようだな。皆、槍を降ろせ。引き上げるぞ。お主らも、ついて来い」
ガレアの言葉で渋々ながらも武器を下ろし、歩き出した男達の後ろに、私達も続いた。
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