ゆっくりと、メルが立ち上がる。雨の音が少しずつ、少しずつ強くなってきた。
「——父さんの事が、心の傷になんてならないよ。あたしはただ、自分が情けなかっただけだから」
「何度も言わせんじゃねぇ! それは、生まれつきのもんだろうが! 姉貴の所為じゃねぇって——」
弟の心からの叫びに、姉は首を横に振る。
「体質じゃなくて、性格。あたしは、こんなどうしようもなく甘えてる自分が、情けなかったんだよ」
「……甘えてる? 姉貴が?」
「あたしさ。本当はアトラスさんが、あの人達が言ってた『雨男』なんじゃないかって、なんとなくだけど分かってた。だって……慎重な父さんが、家に外の人を入れるなんて事も、あんなに簡単に水をくれた事も、空に雲が浮かんでた事も……ぜんぶぜんぶ、普通じゃなかったから」
思い返してみれば、メルのベッドは窓のすぐ側にあった。ふとした拍子に空に浮かぶ雲が目に入っても、なんら不思議ではない筈だ。
「でも、何か悪い事が起こるなんて思ってなかったよ。二人とも、優しくて良い人だったし……父さんは絶対に、乱暴な事をする人じゃない。自分の子供でも何でもないあたし達の為に泣いてくれた、とっても優しい人だもの」
「自分の——」
飛び出しそうになった驚きを飲み込む。顔には出ていたかもしれないが、声だけはなんとかして押さえ込んだ。
「そんな人が……出て行けって言ったんだよ? 絶対、夜も眠れないくらい悩んで、悩んで、悩んで——それで、言ってくれたんだと思う。それなのに……レジーを巻き込んでまで言ってくれたのに……! 当のあたしが……離れたくないって……! もっと、一緒に居たいって……そう思っちゃったから……!!」
——溢れる涙は、雨のように。消える笑みに、縋るように。
これを、この想いを甘えていると言えるのは、彼女自身だけ。あるいは——
「——すべて……すべて。何もかもが……上手くいかぬものだな……」
絞り出すような言葉と共に、ゆっくりと父が振り向く。ようやく露わになった彼の顔は、涙で歪んでいた。
「ごめん父さん……あたし……!」
「謝るな。謝らないでくれ。情けないなんて言わないでくれ。全て、私が悪いんだ」
「そんな事……」
「お前達の未来を拓きたいと願っていながら、私自身の手でそれを閉ざしてしまうのが怖かった。だから……都合の悪い事に目を瞑って、対話する事からも逃げた。どうしようもない男だ。昔も……今も成長していない——」
「——あー……くだらねぇ」
静かで、それでいて飄々とした声だった。月を見ていた時のような、おどけてみせていた時のような、一番レジナルドらしいと思える、そんな声だ。
「……レジナルド?」
「レジー……?」
「この際だから、全部ぶちまけてやるよ。なんでどいつもこいつも一人で全部背負い込むんだよ。そんでその挙句が私が、あたしが全部悪い? ふざけんのも大概にしろ。隠すなよ、分け合えや。散々に話し合って、喧嘩して、それでも駄目なら世界が悪いで良いじゃねぇか。なぁ?」
小さく頷く。アトラスも多分、笑っていた。
「ほら……だからよ、親父。もう一回、正直に全部話してくれ。今度は丁度、世話になるかもしれねぇ連中もいる事だしな」
「お前……いつの間にそこまで……」
「……前から思ってた。ただ……ちょっと思うところがあって、今言う気になっただけの話だ」
一瞬だけ、レジナルドがこちらを見た。
「ありがとう、レジー。また、助けられちゃった」
「なんもしてねぇよ。別に——って、うぉ!? なんだよ姉貴! いきなり頭を撫でるんじゃねぇ!」
「大きくなったね。背伸びしてやっとだよ」
「話を聞け! 気色悪ぃ!!」
「なんでよ!? 昔は良くやってたじゃない!」
姉弟が楽しそうに言い合っている。ガレアはそれを名残惜しそうに眺めた後、こちらを向いた。
「旅人よ。お主……いや、お前はどこまで見通していたのだ?」
「何も。覚えのない事だ」
「……そうか。慎み深いな」
見ていたのとも、聞いていたのとも違って、朝の日差しのように柔らかく、ガレアは笑った。
そして、また少し雨が強くなって、空の端がすっかり明るくなった頃、彼はまた口を開いた。
「——メル。お前が生きる為には水が必要だ。だが……融通するだけでは駄目だった。ただ生きている事だけに、意味は無いからだ。そして、そんな時に聞いたのが、水に不自由しない都市なるものの話。そして……彼、旅をする『雨男』の話だった」
ただ生きる事に、意味は無い。痛い程分かる話だ。
「当然、信用に値する話ではない。前者はそもそも、実際に存在するとして、人をあのように扱う場所に二人を行かせるなどあり得ん。だからこそ……昨日雲を見た時には、心臓が止まる思いだった」
それも、よく分かる。
「最初は……村に住まわせる事を考えた。だが……どうやっても、旅をやめるつもりは無いようだった。ならば、ついて行かせるしかない。かと言って、メルを一人で行かせる訳には行かない。そうなれば……二人共を、連れて行ってもらえるように頼むしかないと思った。儂はもう、老い先短い身だからな」
「……そうだったのか。道理でまあ……急な話だと思ったぜ。それとな、一つ聞かせてくれ、アトラスさん。おたくはどうして了承したんだ? 俺達を連れて行く事に、益があるようには思えねぇが」
レジナルドが尋ねると、アトラスがゆっくりと顔を上げた。
「ガレアにいくつかの交換条件を飲ませた。情報、報酬……寝食もその一つだ」
その答えに、ガレアも頷く。
「安いものだ。それで、その後にどう伝えるかを考えた。お前達の足枷になりたくなくてな。結局は一芝居打ったのだが……間違いだった。本当なら、こうして話し合うべきだった。お前達の未来を、お前達の手で決めさせるべきだったんだ」
そこでガレアは、言葉を切る。メルとレジナルド、二人の目を交互に見て、ゆっくりと尋ねた。
「——それで、お前達はどうしたい?」
二人の目に、驚きはない。むしろ、待っていたと言わんばかりに輝いている。
「アトラスさん。あたしからも一つ、聞いていいですか?」
「なんだ?」
「どうして……旅をしているんですか?」
「水のある世界を、取り戻す為にだ」
メルの問いに、アトラスは堂々と答えた。絶対に辿り着くという、確固たる信念をもって。
「ヴァルカちゃんは?」
「……え? 私?」
心臓が跳ねる。聞かれないと油断していた訳ではないが、まさか自分が尋ねられる立場になる日が来るとは思わなくて、また変な声をあげてしまった。
「うん。ヴァルカちゃんはどうして、旅をしてるの?」
決して急かさないように、優しく諭すように、もう一度尋ねられた。
大丈夫だ。緊張する事なんてない。答えは決まってる。後はそれを、素直に吐き出すだけだから。
「海のある世界が見てみたくて。あと……それと、アトラスとずっと一緒に居たいんです」
「そっか……素敵だね」
昨日のように、メルは笑った。そして、レジナルドの方を向く。
「先に言っとくが、俺は姉貴を守るって決めてんだよ。これだけは譲れねぇ。この世界の何処に行ったって、俺はついていくからな」
「……ありがとう。あたし、幸せ者だったんだなぁ。こんなに大切にして貰ってさ……」
赤く腫れた目元から、また雫が落ちる。でも、浮かべているのは心の底からの笑顔。
「——アトラスさん。私と弟も、旅について行って良いですか?」
「ついて来れなければ、置いていく。それでも良ければな」
「はい……!」
——メルとレジナルドが、それぞれの部屋に戻って行く。誰かが支度をしているのを待つのは初めての事だったけど、家族が増えたようでただただ嬉しかった。
「支度は済んだか?」
「はい」
「なんとかな」
二人が頷く。何処か覚えのある、初めての光景。アトラスが、扉に手をかける。
「またね、父さん」
「またな、親父」
父親は、笑った。あの時見たように、優しく。
「——旅人よ、私の大切な二人をどうか。その果てしない道行に、幸多い未来がありますように……」
——雨の中。別れが、村が、遠ざかっていく。
振り返ると、澄んだ夜明けの空にまた、雲が天高く連なっていた。
お読み頂き、ありがとうございました!
読み終わったら、ポイントを付けましょう!