笑いも収まった頃、いつの間にか差し込む光に、違う色が混じり始めていた。
時間を盗まれたかのようだったが、こんなに気分が弾むのならば、時間なんていくら渡したって構わない。
「ほら、そっち座って。水は——」
「いい。どちらも自前で持っている」
そうして、男は腰から下げている箱のようなものと荷物を叩き、私の正面に座る。いつもは一人で静かに食べている夕食に、今日はとびっきりのお客さんが居る。
なんて素敵で、心の踊る事だろうか。何でも無い食事さえ、この上ない幸せに感じる。
せっかくなのだから、何か会話がしたい。そう思った時、ふと男が手に持っている、干した肉が目に入る。
「あんたそれ、何食べてるの? そんなの見た事無いけど」
「……レッドラビットという、魔獣の干し肉だ。少量で高い栄養が得られるらしくてな、重宝されていた」
聞いた事も無い名前だ。この辺りにはきっと、いない魔獣なのだろう。
「へぇ、そんなのがいるんだ」
「少し前に立ち寄った場所の、固有種なんだそうだ。この辺りにもそういうのはいるのか?」
「固有かどうかは知らないけど、魔獣はいるよ。空飛ぶ奴とか、地面を泳ぐ奴とか、他にも色々」
「大変だな。ここも」
こうして会話をしてくれる人が居るだけで、乾いた日常がまるで違った物になる。この時間が永遠に続けば良いのに。そう願っている自分が居た。
「そういえば、お前は旅について知っているようだが、誰に聞いた?」
突然に、男の口調が少し鋭くなる。穏やかさはまだ残っていたものの、言葉に込められた重みが増しているのが、明確に分かる程に。
「……おばあちゃんに。物知りのおばあちゃんでさ、昔にちょっとだけ旅をした事もあるらしくてね、色々聞かせてくれたの。もう、死んじゃったけど」
「そうか」
すぐに元の穏やかなものに戻った男の声を聞きながら、私はこの時間の終わりを感じていた。
窓の外で日は沈み続け、静かな闇が部屋を満たしていく。もう、寝なければならない時だ。
「えっと……寝る所はそっちね。しばらく使って無いけど、手入れはしてるから、多分大丈夫」
「……感謝する」
男を、奥の寝床へと案内する。
両親が亡くなってからは使っていなかったものだが、一日だって手入れを欠かした事は無い。
思い出の詰まったものだから、かけがえの無い時間をくれたこの人にこそ、是非使って欲しい。
「——そうだ」
そんな事を思っていた時、男が何かを思い出したかのように、こちらを向いた。
「明日は雨が降る。支度をしてから、寝る事だ」
「……え?」
それだけ言って、男は目を閉じた。一瞬、何を言われたのかが分からなかった。雨は少し前に降ったばかりで、明日に降る訳は無い。そんな事は、小さな子供でも分かる。
それなのに、私にはどうしても、この人が嘘を言っているようには聞こえなかった。
半信半疑のまま、寝支度に水を入れる為の桶を用意する作業を加えて、身体を横たえる。いつもは瞬き程の間に眠りにつけるのだが、今日はそうもいかなかった。
瞼を閉じ、僅かに開いてみては、また閉じる。いつまでもその繰り返し。心臓の鼓動がうるさくて、どうしても眠る事が出来ない。
けれど、眼前に広がる闇が、どれだけ起きていようとも、これで一日が終わるのだと嫌でも思わせてきて、切なさが胸に溢れてくる。
「ねぇ、まだ……起きてる? 起きてるなら……返事してよ」
この胸が締め付けられるような気持ちを紛らわせたくて、もう少しだけ話がしたいという淡い希望を、つい言葉にしてしまった。
そんな事をしても虚しいだけ。もう、日が暮れてから随分と時間が経っている。答えなど、返ってくる訳がない。
「起きて……ないかぁ。そっかぁ……」
「——なんだ?」
「ひゃう!?」
——張り裂けそうなくらい、大きく胸が跳ねた。
「……何も、そんな声をあげる事はないだろう」
「いや、だって……!」
妙な声をあげてしまった事に恥じらいを覚えようにも、急加速した鼓動が鳴り止まなくて、どうしようもなかった。
何度も何度も深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせる。このままでは、話す事すらままならない。
「落ち着いたか?」
「……なんとか」
少しの時間を置いて、ようやく普通に話せる程度にまでは自分が戻ってきた。あれ程までに驚いたのは、生まれて初めてかもしれない。
「ならいい。それで……何か用でもあったのか?」
「あ、うん。それなんだけど——」
男の問いに、思わず言葉を詰まらせてしまった。確かに言いたい事はある。しかし、今更こんな事を言うのもあれだが、口に出すのは躊躇われた。
何しろ、こんな事を言うのはあまりにも愚かだ。今日、出会ったばかりの人間に言う事では絶対にない。
けれど、今言わねば永久に言う機会を失う。言わなければならない、どうしても言いたいという気持ちが、私の背中を強く強く押した。
「——えっとさ。あんた、旅をやめて、ずっとここに住む気とか、ない?」
——それは夢。叶わぬ愚かな願い。結末の分かりきった、意味の無い問い。
きっと断られる。もしかしたら嗤われるかもしれない。そうだとしても、踏み出した事に後悔は無い。
だってこれは、何一つ踏み出せなかった弱虫が、生まれて初めて踏み出した一歩だったのだから。
男は、しばらくの間沈黙している。暗くて顔は良く分からなかったけれど、なんとなく困っているような気がした。
「いや……すまないが、俺は同じ所に留まれない。旅を、途中でやめる訳にはいかないしな」
やがて、男の口から出たのは、やんわりとした断りの言葉。そうなるのは分かっていた、分かっていた筈なのに、寂しくて、苦しくて堪らない。
「……そっか。じゃあ……明日でお別れだね。聞いてくれて、ありがとう。おやすみ」
万が一にも気取られないように、反対側を向く。これ以上、この人に甘える訳にはいかなかった。
——寂しいようで、嬉しいような夜の中、私の意識はすっと闇へと落ちる。
でも、何か妙に明るい。気がつけばぼんやりと広がっていた、どこか懐かしい景色。
その中で、二つの声がぼんやりと揺蕩っている。穏やかな声と無邪気な明るい声。
次第に、それはまるでピントが合うかのようにはっきりとしていく。そして、この声が誰のものなのかもすぐに思い出した。間違いない。あれは祖母と私のものだ。
「——そうして、旅人達は無事に宝物に辿り着けた訳さ。面白かったかい? ヴァルカ」
「うん! とっても面白かったよ!……でも、おばあちゃん。どうしてたびびと……さん達は、あんなに危ない事をするの? 水も、食べ物も、なぁんにもないのに」
記憶の奥底に眠っていた光景。これは、祖母から旅人達の冒険の話を聞いた時の事だったと思う。
「それはね、ヴァルカ。旅人ってのは、自分の夢をどこまでも追っていく生き物だからさ」
「ゆめ……?」
「そうさ。奴らはその為なら、どんなに厳しい道だって、笑って切り拓き、進んでみせる。無謀で、愚かで、それでいて最高にイカした連中なのさ——」
——なんの屈託も無い、祖母の気持ち良い笑顔。それを最後に、懐かしい景色が遠ざかっていった。
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