部屋に戻ると、そこには静寂が満ちていた。アトラスはまだ、戻ってきていない。
大人しく待つのが今すべき事なのだろうが、味気の無い壁、乾いた空気、誰も居ない孤独——そして、吐きそうなくらいの、人の悪意。
嫌な当たり前が次から次へと溢れ返ってきて、どうにもじっとしては居られなかった。
また、水でも飲んで落ち着くべきだろうか。そんな事を考えていた時、静かな部屋に足音が届く。
確証は無いが、おそらくアトラスのものだろう。
「——ヴァルカ、戻っているか?」
「おかえり!」
扉を開けると、案の定彼がいた。その表情は相変わらず変化がなく、成果を判別する事は出来そうに無い。
「ただいま」
「それで、どうだった?」
「まあまあ、だな。あのガレアという長、相当な信頼を得ているらしい。詳しい事は伏せられていたにしろ、色々と話を聞く事が出来た」
アトラスが荷物を床に下ろし、ベッドに座る。そして、大きく息を吐いて、頭に巻いていた布を外した。
露わになった、メルの部屋の扉にも負けない、汚れ一つない真っ白な髪は、青い瞳と同じように、私の目にはとても綺麗なものに映る。
「とはいえ、お前に話せるようなものは何も無い。一応あの三人の事も尋ねては見たが、誰も彼もが仲の良い家族だ、と言うばかりで、それ以上は何も分からなかった。お前の方はどうだ?」
「あ、あのねアトラス。実は——」
彼に、メルの部屋を訪ねた時の事を話す。元気そうな彼女の様子、彼女にして貰った話、そして——腕の痣の事も。
「ふむ……成る程な」
「どう、思う……?」
顎に手を当てて思案するアトラスに、恐る恐る尋ねてみると、彼は静かに答えてくれた。
「お前の話を聞いた限りでは、何かある。いや、あったな。それは間違い無い。だが……」
「だが……?」
一旦言葉を切り、アトラスが目を細める。
「これ以上、踏み込む事は出来ない。俺達は旅人で、彼らにとっては単なる部外者に過ぎないからな」
その言葉に込められた意味が、分からない程愚かではない。
私達は出会ったばかりの他所者で、明日が過ぎればもう二度と話す事も無い、赤の他人同士。
踏み込む資格も無ければ、本当はああやって言葉をかける資格も、憶測でこうやって悩む資格すらも無い。
そんな事は分かってる。分かってる、けれど——
「あまり、思い詰めるな」
大きな手が、優しく私の頭を撫でる。きっとまた、そういう顔をしていたのだろう。
「でも、メルさんはきっと……」
「お前は別に、間違えた訳じゃない。そういう事だってある。それだけの事だ。その気持ちは、大切に心の奥にしまっておけ。いいな?」
「……うん」
一応は納得して、頷いてはみたものの、やはりやり切れないものが心の内を這いずったままだった。
「——入っても良いだろうか?」
そんな時鳴った、扉を叩く音。この威圧感のある低い声は、ガレアのものだろう。
「構わない」
「失礼する。夕食の支度が整った。こちらに来て貰えるだろうか?」
「行くぞ、ヴァルカ」
「うん」
ガレアに案内された部屋には、元気になったメルとレジナルドの姿もあった。
「こちらに座ってくれ」
「えっと……失礼します」
「それで、これはなんだ?」
席に着くなり、アトラスが尋ねる。視線の先にあるのは、真っ白い皿の上にいくつも置かれた、砂よりもずっと鮮やかな黄色を堪えた何か。
「この辺りに自生している、植物の果実だ。昔からこの村では、客人が来た時出す決まりになっている。もし食べられるかどうかの証明が必要と言うなら、今この場でやってみせるが……どうする?」
「勿論遠慮なんか要らねぇぜ? 身の潔白を証明する為に喜んで——」
「いや、いい。問題無いようだからな」
「……ちっ」
口角を緩ませ、身を乗り出していたレジナルドが、小さく舌打ちをする。
ふと右を見ると、メルも何処か緩んだ表情をしているのも目に入った。
今まで見た事も無いものだが、これはそれ程までに美味しいものなのだろうか。
「なんか不安そうだけど……大丈夫だから、一口だけでも食べてごらん? きっと、忘れられない思い出になるよ!」
メルの言葉が、決め手だった。自分でも笑ってしまうくらい単純だけれど、忘れられないなんて言われてしまったら、食べないなんて出来る訳ない。
そうして一つ、皿の上のものを手に取る。果実というらしいそれは、少し濡れていて、硬いようで柔らかくて、温かいようで冷たい。
顔に近づけてみると、撫でるような優しい匂いがする。目を瞑って、僅かに残っていた恐怖心を投げ捨てて、一口かじってみる。
「んっ——!?」
思わず、残りも食べてしまった。口がキュッと縮んだかと思った次の瞬間には、生まれてから一度も味わった事の無い種類の優しい味が、身体中に染み込んでくる。
なんて言えば良いのだろう。昨日の焼いた肉とはまた違った、自然と笑顔になってしまうような、そんな幸せの味。
「ね? 美味しいでしょ!?」
「はいっ! とっても!!」
「嬢ちゃんはこう言ってるが……あんたはどうだ?」
メルと笑いあっている側で、自慢げにレジナルドがアトラスに尋ねている。気になってそちらを見ると、アトラスが目を丸くしていた。
「……驚いたな。果実は前にも食べた事があるが、これ程甘いものは初めて食べる」
「だろ? 俺らの自慢さ」
「あまい? ねぇ、アトラス。この味は、あまいって言うの?」
「そうだ。甘味と言うやつだな」
聞いてみると、アトラスは首を縦に振った。この味は、甘いと言うらしい。また一つ、勉強になった。
「ほら、ヴァルカちゃん! まだまだあるから、遠慮なく食べて食べて!」
「あ、えっと……メルさんは、良いんですか?」
「え? いや、あたしは大丈夫! これは、お客さんに出すものだから……あたしが食べるのは……」
慌てて、メルが手を振る。そうは言われても、私とアトラスだけがこれを食べるのは、気が引ける。
でもきっと、彼女は首を縦には振らない。だから——
「そんな事言わずに、食べて下さい!」
「ま、待ってヴァルカちゃ……んぐぐっ!?」
「……なんと」
メルの口に、強引に果実を押し込んだ。
「いきなりごめんなさい。どうしてもメルさんにも食べて欲しくて……」
「……んっ! はぁ……! ううん、謝らないで! すごく美味しかったよ! ありがとうヴァルカちゃん!!」
突然、視界が真っ暗になる。それが抱きしめられたからだと分かったのは、やっとの事で埋もれた顔を上げた時だ。
「あ、あのっ……! メルさん!?」
「んふふ……今度はあたしが離さない! 離してあげないから!」
「あ、あの姉貴が……」
「全く……とんでもない客人がいたものだ」
「思いたったが……か。やれやれだな。さて、彼女は食べたが、お前達は食べないのか? 甘いぞ?」
合わせてくれたのか、美味しそうに、そしてわざとらしく見せるように果実を食べるアトラス。
呆気にとられていたガレアとレジナルドも、互いに顔を見合わせて、しぶしぶ果実を口にした。
「へへ……やっぱこれだよな。生きてるって感じがするぜ」
「久々だが、美味い。太陽の味がする」
「うぇ!? 太陽ってこんな味がするんですか!?」
「違ぇよ! んな訳ねぇだろ! 例えだよ、例え!」
「あ、そうなんですか……恥ずかしい……」
「顔を赤くしてるのも、可愛い!」
——一斉に、笑いが巻き起こった。皆が楽しそうで、とっても幸せそうだ。
やっぱり豊かでも、そうでなくても、皆で食べ物を分けあって、話して、笑える食事の方がいい。
また懐かしい、温かい腕の中で、私はぼんやりとそんな事を考えていた。
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