一瞬と言うには、あまりに長すぎる間が流れる。身体を動かしたいのは山々だが、どうにもこうにも動いてくれない。自分が帰ってこない。
その葛藤の末に、男が瞬きを一つした事でようやく自分を取り戻す事が出来た。
もう吸い込まれないようにゆっくりと瞳から目を離し、男を注視する。
まず目につくのは、頭と顔の半分を覆う、砂埃で汚れた服。そして次に、その手に握られた、布のような物を周りに纏っている奇妙な杖。
また、細身だが服の上から分かる程筋肉質な身体をしており、その背中には、何に使うのかは分からないが、大きな荷物が背負われていた。
「貴方は……何をしているの?」
声が届く程近づいて、努めて慎重かつ丁寧に、されど警戒している事が伝わるような声色を意識して、男に問いかけた。
人とまともに話したのは久しぶりで、おかしな質問になってしまったのが少し悔やまれる。
「……旅を、している」
「どうして?」
間髪入れず、聞き返していた。旅——耳慣れない単語ではあったが、それが意味することは知っている。だからこそ、この世界でそうする理由を尋ねてみたかった。
だが、男は固まっていた。顔に手を当て、微動だにしない。
すると、男が手に包帯を巻いているのが目についた。包帯を巻く程の怪我をしているようには見えず、それは些か不自然に思える。
だが、少し考えればその理由にはすぐに思い当たった。右手に包帯を巻くという事は即ち、そこに在るもの、つまり刻印を隠す事に他ならない。
この人も自分と同じ火の刻印を持つ人間で、村を追い出されて仕方なく旅をしているのではないか。そんな思考が頭の中を支配していく。
疑問に思っていた筈の雲の事などすっかり頭の中から弾き出され、いつのまにか私は、良く知りもしない男の境遇に同情する気持ちでいっぱいになっていた。
「行く場所が無いなら、私の家に来ない? 一日くらいなら、なんとかなるから」
「……まるで、聞き分けの無い子供だな。突拍子も無い事を次から次へと」
男が目に見えて困惑している。当然と言えば当然だが、それでも譲るわけにはいかない。何としてでもこの人の力になりたかった。
「貴方に迷惑はかけないし! 水だって、食料だって! なんとかするから!!」
あまりの大きさに、喉が悲鳴を上げている。こんなに声を張り上げた事なんて、今までに一度だってなかった。
男は、少し考えるような素振りを見せた後、ゆっくりと、その岩のように重そうな口を開いた。
「……分かった。だがあまり——」
「——行こう!」
最初の答え一つさえあれば、今の私には十分過ぎた。気づけば男の手を引いて、家まで導いていた。
実の所、この人に迷惑をかけないようにする事は容易、という訳ではない。当然ながら、村人達は知らない人間を迎え入れたりはしない。
だが、幸いな事に私の家は村の端の端。今日は村をあげて狩りに行く日でもないし、雲が出ているかを確認する日でもない。
要するに、水の配給が終わった今ならば、外に出ている人間はほとんどいない。人を一人、家に匿うくらいなら、何とかなる筈だ、
視線が無いか慎重に確認しながら、家の扉を押し開ける。
大丈夫だ、こういう事には慣れている。日頃から嫌な視線を浴びているからか、人の視線があればすぐに分かる。
全てを素早く確認し、扉を閉める。うんざりする程見た筈の貧相な部屋が、今は心地良い。
「……本当に泊める気か。一体何が、お前をそこまで動かしている?」
怪訝そうに男が問いかけてくる。相変わらず表情は一切動かないが、敵意も無いようだった。
「私も一緒だから。放っておけなくて」
右手の甲を見せる。その意図はすぐに分かったらしく、男の目がほんの僅かに細くなる。
「大丈夫。見返りなんて要らないし、出来るだけの事をするから——」
「——それなら、俺はここに居る訳にはいかない」
「……え?」
私の話を遮るように、男は重く言葉を発した。その雰囲気に気圧される私を余所に、彼は右手の包帯をするすると解いていく。
「あ——」
間の抜けた声と共に、身体中の力が抜け落ちていく。あまりにも強い感情に、全身を飲み込まれていくような感覚さえ覚えた。
そこに、そこにあったのは、火の刻印では無かった。火の刻印とは真逆、この世界で最も貴重で、重宝される水の刻印だったのだ。
「その厚意には感謝する。だが——」
身体が、震えている。良く知りもしない人間の境遇に勝手に同情して、ありもしない虚構に勇気を絞り出した結果がこれだ。
八つ当たりだと理解してはいても、裏切られたような気分が込み上げてきて、どうにもならなかった。
「——あんたも……馬鹿にするの?」
違う、そうじゃない。私が勝手にやった事だ。そんな事は、分かってる。
「私が火の刻印を持ってるから……! 生きる価値の無い生き物だからっ……!!」
でも、このやり場の無い感情を抑える術を、私は知らない。
だから、今にも泣きそうになって、声を震わせる私を自分では止められない。自分がこのまま、壊れてしまうのが分かっていても。
「——いいや」
男は短く、きっぱりと言い切った。それだけの事で、この気持ちが鎮まる筈は無い。
なのに、私の心を強く揺さぶるだけの、感情を堰き止めてくれるだけの、不思議な何かがそこには込められていた。
「どんな理由であれ、お前は利益なんて関係なしに手を差し伸べてくれた。ありがたかったよ。そんな風に扱われた事は、あまり無かったからな」
紡がれる言葉の一つ一つが、乾ききった心に染み込んだ。水を飲み干した時さえ比較にならない程の充足感が、身体中に広がっていく。
「確かに、火だ、水だと騒ぎ立てる馬鹿もいる。だがな、何の刻印を持っていようと、お前の存在そのものが揺らぐ事は無いだろう」
こんな感覚は初めての筈だ。でも、これはどこか懐かしくて、ずっと心のどこかで、求めていたもののような気がした。
「他の誰が何と言おうと、お前は無価値なんかじゃない。人間なんだ。それも、世界にたった一人の、代えの利かない……な」
——ああ、そっか。そういう事だったんだ。ようやく理解した。どうして、この人の言葉から重みを感じるのか、直接握られたかのように強く、心を揺さぶられるのか、を。
難しい理屈なんて何も無かった。それはとても簡単で、懐かしくて、待ち遠しいかったもの。ああ、そうだ。この人は、この人はきっと——
——私の事を、一人の人間として見てくれているんだ。
「ではな」
男が振り向く。それを見た途端、今度は本当の意味で自然に身体が動いて、遠ざかる男の右手を強く掴んだ。
「——もし……もし良かったらだけどさ。泊まっていってくれない? あんたともっと、話がしていたいから」
自分でも驚くくらい、軽やかに声が出せた。同じような事を言ってはいても、込められた感情は比べる必要すらない程に違った。
「……本当に良いのか?」
考えるまでも無く、首を縦に振る。こんなに全身が軽いのは、いつ以来だろうか。
「なら……ありがたく世話になろう」
男が、表情を緩める。
「そっか……そっかぁ……!」
それが何よりも嬉しかったのか、変な笑いが喉の奥から込み上げて来て、止まらなくなってしまった。
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