段差を登り、二階の通路を少し進むと、レジナルドの話の通り、汚れ一つない真っ白い扉が見えて来る。
「メルさん……いますか?」
慎重にその扉を叩いてみると、中から誰かが動いている音がした。
「どうぞ、開いてるよ」
「失礼します……!」
了承を貰って、恐る恐る開いた扉の先は、とても澄んでいた。
いつも感じている、乾いた風とは違う空気。雨が降っている時にも似た心地の良いそれに、思わずここへ来た目的を忘れそうになる。
「……ヴァルカちゃん? どうしたの? もしかして、心配して来てくれたの?」
気を取り直して声の方を見ると、ポツンと置かれた窓の側のベッドに、身体を起こしているメルの姿があった。
「はい……迷惑だったら、ごめんなさい」
「全然! 嬉しいよ。ほら、こっち座って。立ったままだと、辛いでしょ?」
言われるままに、ベッドに腰を下ろす。メルの声はさっきよりも明らかに元気になっていて、少し安心する。
「さっきは、心配かけてごめんね」
「いえ……全然! 大丈夫です! それに、メルさんが悪い訳じゃ……」
「悪いよ。レジーにあたしの身体の事、聞いたでしょ? 本当に、情けないよね。あたしお姉ちゃんなのに、もっと頑張んなきゃいけないのに、皆にも、弟にも心配かけてばっかりでさ。自分が嫌いで嫌いで、たまらなくなるよ」
「メルさん……」
悔しそうに、か細い手でシーツを握りしめる彼女は、雲のように儚くて、今にも消えてしまいそうだった。
「あはは、あたし何してんだろう。ヴァルカちゃんだってお客さんなのに、こんな愚痴聞かせちゃって」
見ていられない程苦しそうに、メルが笑う。
何かを言うには、まだ私は未熟過ぎる。きっと、アトラスみたいにはいかないだろう。
でも、躊躇するのはもうやめた。このまま何も、言わないなんて事、見ているだけなんて事は出来ない。
「メルさん」
「ん?」
言葉を紡ぐ前に、息を大きく吸い込んで、吐く。今の自分なら大丈夫だと、せめて自分だけには言い聞かせる。
「私は——メルさんはとっても立派だと思います」
「……立派? あたしが?」
不思議がるメルに、何も言わずに右手の甲を見せる。彼女は少し目を丸くしたが、嘲るような事はしなかった。
「私もほんのちょっと前、つい昨日までは……自分の事が嫌いでした。こんなものの為に、自分の人生を諦めていたんです」
心の奥底から言葉を絞り出す。アトラスがそうしてくれたように。
「その時私は、ずっと嘆くだけで、何もしなかった。しようとも思わなかった。だからメルさんがそうやって、自分に出来る事を精一杯やろうとしてるのは、立派な事だし、尊敬出来る事だと思うんです。えっと、だから——」
「——そっか。ヴァルカちゃんは、優しいね」
火のように柔らかい、メルの笑顔の暖かさが伝わったのか、自分の顔も熱を帯びていく。
「もし迷惑じゃなかったら……あたしの話、しても良いかな?」
赤く火照った顔のまま、頷く。
「ありがと。あのね、あたしも昔は自分で何かしようとなんてしなかったよ。何も出来なくて、変えられないから、あたし一人が我慢すれば、耐えればいいんだってずっと思ってた。そんなの、いつか限界が来るに決まってるのにね」
どこか悔しそうで、悲しそうで、それでいて妙に穏やかな遠い目が、心を直接揺らしてくるようだった。
「案の定、その時はすぐに来てさ。あたしが間違ってたんだって気づいた時には、もう取り返しのつかない事になってた。こんな事なら、生まれて来なきゃ良かったって思ったよ」
「取り返しの、つかない事……」
「でもね、そんなあたしが変わろうって思ったのは、父さんのおかげだったの」
「ガレアさんの……?」
「そう。この村の人は皆、父さんを尊敬してる。火の刻印が悪い物なんだって思ってた皆を変えたのも、父さんなんだよ」
「へぇ……!」
思い返してみれば、旅人という事で怪しまれたりはしたが、火の刻印に何かを言った人間は一人も居なかった。
「あの人みたいに強くて優しい、レジーの立派なお姉ちゃんでいようってずっと思って生きてきたけど……まだまだ背中は遠いね」
「その気持ち、ちょっと分かる気がします。アトラスの背中が、そんな感じですから」
「あははは! やっぱりそうなんだ!」
「はい」
同じように語るのは失礼かもしれないけれど、私達は、なんとなく似ているのかもしれない。
笑い合う中で、どうしてメルの事が、居てもたってもいられない程心配になったのかが、分かった気がした。
「なんか、話したらすっきりした。あたしはもう大丈夫だから、ヴァルカちゃんも戻って休んだ方が良いよ。付き合ってくれて、ありがと」
「こちらこそ! それじゃあまた——」
「あ、そうだ! ちょっと待って!」
掴まれた手。なんて暖かいのだろうと思った次の瞬間にはもう、別の事に驚かされていた。
メルの身体を、不思議な緑の光が包む。やがてそれは、繋がれた手を伝って私の身体をも包み込んだ。
「これ、って……魔法……!?」
「どう? 凄いでしょ! これでお礼になってたらいいんだけど……」
光が消えた後には、服についていた砂埃が綺麗に消え、心なしか身体も軽くなっているような気がした。
「すごいです! ありがとうございます!」
「そっか! 良かった! じゃあまたね、ヴァルカちゃん!」
「は……い——!」
——息が詰まるような、感覚を覚える。
驚きを気取られないように部屋を出て、扉がしっかり閉まったのを確認する。頭の中は、最後に目に入ってしまったものでいっぱいだった。
伸ばした腕にあった、今まで袖に隠れて見えなかった痣。嫌な感じがする。吐き気がするくらいの、悪意が見える。
「やっぱりここに居たのか」
「うひゃっ!?」
全身が震える。振り向くと、目の前には呆れた表情のレジナルドが立っていた。
「……そんな声出すなって。姉貴に聞こえちまうじゃねぇか」
「す、すみません……レジナルドさん」
「ここで謝るのかよ。まあいい。姉貴の様子はどうだった? 元気そうにしてたか?」
「えっと、元気そうでしたよ。もう、大丈夫だと思います」
「そうか。なら良かったぜ」
そのまま階段を降りようとするレジナルドの姿に、ふと疑問が浮かんだ。メルが元気がどうかは、自分の目で確かめれば良かったのではないかと。
「——それがな、駄目なんだ。姉貴は誰の前だって無理するんだが……俺の前なら尚更だ。くたばる寸前だろうが、元気だって言い張るだろうよ」
「な、なんで私が不思議に思ったのが分かったんです……!?」
「……嬢ちゃん、隠し事苦手だろ。顔に全部書いてあったぜ」
「うそ!? てことは……もしかして……!」
もしかしたら、今までの葛藤も全部、アトラスに筒抜けだったのだろうか。そう思うと、恥ずかしくて消えてしまいたくなる。
「賑やかだねぇ。ま、俺は正直な方が好きだぜ。思ってる事を、ひたすら隠してるよりはな」
手をひらひらと振り、レジナルドが降りていく。
恥ずかしいという感覚が消えて行って、また気分が沈んでいく。
何をすれば良いのか、迷う。しかし、ここに居続けても仕方がない。一度、部屋へ戻る事にしよう。
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