次の日、僕はいつも通りにシドの格好をして、半力さんを連れて赤瀬川さんの事務所に顔を出した。全力さんはやっぱり、箱の上で寝ていた。
その箱は美しい蒔絵の施された京漆器で、一流の品であることに間違いはないように思えた。今までは何とも思わなかったが、半力さんにそう言われてみると、何だか怪しい箱に思えてくる。
僕がトイレの砂を取り換えていると、赤瀬川さんが珍しく午前中から事務所に顔を出した。掃除を終えた後、僕は馬鹿にされるのは覚悟の上で、昨日の夢について彼に話してみた。
「そりゃあ、また変な夢を見たもんだな」
「でしょう。あの箱って、一体何なんです?」
「お前の師匠――つまり、俺の義兄弟である剣乃 征大の遺品だよ。由緒ある品らしいが、具体的には俺もよく知らない。まさか、捨てる訳にもいかないしな」
「そうですね」
「俺に万一の事があったら、お前にやるよ。そのフォールドシステムとは、何の関係もないと思うがな」
「あったら困りますよ。ところで赤瀬川さんは、過去に何か動物を飼っていたことがありますか?」
半力さんは否定していたが、全力さんが、昔飼っていたペットの生まれ変わりという事はあり得る。いくら経済ヤクザとはいえ、ずっと極道の世界で生きてきた赤瀬川さんが、全力さんにだけこんなにデレデレなのは、どうにも腑に落ちないからだ。
「飼ってたのは、先代の将門だけさ。ただ、兄貴はよくノラ猫にエサをやってたな」
「師匠が?」
「ああ、一番懐いてたのが、将門によく似た三毛猫だったよ」
「その猫の名前は?」
「だから、将門だよ。奴はいわば三代目なのさ」
「……」
師匠が猫好きというのは、初めて聞く話だった。その猫の名が将門というのなら、確かに今の全力さんは三代目という事になる。
「病院で付けられてた仮名は、キャサリンだったけどな」
「どっちにしろ、似あってませんね」
全力さんは、先代の将門が死んだ後、落ち込んでる赤瀬川さんを慰めるために、僕が近くの動物病院で貰ってきた猫だ。そして、もう二度と死なないようにという思いを込めて、デーモンコアというミドルネームを付けたのだった。
全力さんが病院に保護された経緯は、前に少し聞いたことがある。まだ子猫だった頃に一匹だけ群れからはぐれ、ニャーニャー泣いていたところを保護されたのだと言っていた。その時は、「全力さんなら、そんな事もあるだろうなあ……」と何の疑問も感じずにいたけれども、逆に言えば、全力さんの家族を見たものは誰もいない。
「まさかね……」
そう思いつつも、僕は昨日の夢をもう一度、思い出そうとしていた。
ボクと遊んでる時も、時々あらぬことを口走ったりするんですよね。フォールドシステムがどうとかとか、この世界線は、もう失敗なんじゃないかなとか……。
夢の中の半力さんは、確かにそういった。僕は忘れないうちに、夢で出てきた世界線という言葉と、フォールドシステムについて調べてみた。
世界線とは、パラレルワールドとほとんど同じ意味だった。そして、フォールドシステムとは、超光速の空間移動を可能とする装置の事らしい。勿論、机上の概念に過ぎないが、もしそれが可能になれば、過去に遡ったり、時間を一気に進めたりすることが出来るという。
すべてが一本の軸で繋がりそうで、なんだか微妙に繋がらかった。このまま自分一人で考え続けても、多分答えは出ないだろう。ならば頼るのは、僕の家内だ。
「赤瀬川さん。申し訳ありませんが、半力さんをしばらく見ててくれませんか?」
「本当に見てるだけだが、それでいいのか?」
「構いません。ちょっと一人になりたいんです」
付いてこようとする半力さんを、無理やり事務所に押し返すと、僕はここから徒歩数分の距離にある、自分のワンルームに駆け足で帰った。
「……という訳なんだけど、君はどう思う?」
僕は久しぶりに玄関のプリンツ・オイゲンのタペストリーに話しかけ、これまでの話を全て説明した。
「どうもこうも、答えは一つしかないんじゃない、提督?」
「一つ?」
「全力さんはきっと、フォールドシステムを使って、何者かの手によって別の世界線から送り込まれたのよ」
「まさか、そんな……」
「だって、お師匠さんの遺品である箱は確かに存在して、全力さんはいつもその上に居るんでしょ?」
「うん」
「だとしたら、昔お師匠さんのところにいた三毛猫も、やっぱり全力さんだったのかもしれない」
「まさか。もう五十五年も前の話だよ」
「フォールドシステムが本物なら、何の問題もないじゃない?」
師匠が昔、猫を飼っていたという話は初耳だったが、全力さんがあの箱を異様に気に入っている事だけは間違いなかった。赤瀬川さんが、僕にわざわざそんな嘘をつく理由も思いつかない。
「全力さんが、フォールドシステムを使って、若い頃のお師匠さんのところに送り込まれたなら、何も矛盾は起こらないわ。いくら夢だからって、今まで全く知らなかった用語や、意識してなかった考えが、そんな克明に出てくるものかしら?」
「それは確かにそうだね」
「何か理由があると考えた方が自然よ。それに、これまでの経緯がそもそも変よ」
「変って言うと?」
「どれか一つピースが欠けても、今の状況は成立してない。提督の数少ない友人が猫を飼う事になって、そのノロケ話に逆上して、それから猫の一杯いる街に引っ越して……」
「……」
あの猫が腐るほどいる街で、僕はなんだか犬みたいな性格をした半力さんに出会った。そして、半力さんを置いて仙台に戻ろうとした瞬間に、半力さんは謎の皮膚病にかかって動けなくなる。公募の落選はいつもの事だが、本気で殺そうと思っていたのに毒薬を入れ忘れて、結局僕は、正式に半力さんを飼うことになってしまった。
「一つ一つはありえる話だと思うけど、全部揃うと、確かに不思議な気はするね」
「そうよ。いくら何でも話ができすぎよ。少なくとも、半力さんの生まれ変わりの話は本当だと思う。きっと、何か意味があって今ここに居るんだわ」
壁のプリンツは、そう力説した。多分、しばらく出番がなくて、うっ憤が溜まっていたんだろう。僕はらしくもなく、家族のありがたみをひしひしと感じていた(タペストリーだけど)。
プリンツとの会話は有意義だが、非常にカロリーを使う。一つの脳ミソで二人分の思考を制御するんだから当然だ。子供の頃からいつも一人で、動物以外に話す相手が居なかった僕は、こういうやり方じゃないと自分の思考をまとめられない。
「もしかしたら、別の世界線での提督は、あの箱を使って全力さんと一緒に、色んな時代を渡り歩いたりしていたのかもしれない」
プリンツはそういうと、急に黙り込んでしまった。多分、脳のエネルギーを使い果たしたのだ。僕はフラフラと部屋に入り、そのままバタンとベッドに倒れ込んだ。まだお昼を少し回ったぐらいだというのに、少し肌寒さを感じる。戻ってきた時は真夏だったのに、最近の仙台は早くも秋の雰囲気を醸し出していた。シドの格好で過ごすのも、そろそろ限界かも知れない。
「そもそも僕は、何でシドの真似事なんか始めたんだろう? 奇抜な恰好なら、別にパンク・ファッションじゃなくったって良かったじゃないか」
僕はそう独り言ちた。たとえば、作務衣を着たっていい。坊主頭には、むしろそっちの方がよく似合うはずだ。
「いや、やっぱりシドじゃなきゃダメだな。僕はシドの恰好じゃなくて、生き方に憧れたんだから」
人生で挫折を繰り返すたびに、いつしか僕は、正しい事、真っ当な事をして生きることに疑問を持つようになった。そうやって生きていても、何もいいことがなかったからだ。どうせ結果が同じなら、正しくなくても楽しいことをやった方が良い。だから僕は、シドに心底引かれたのだ。
勿論、本人は幻想を押し付けられて辛かったのかもしれない。だが、死の瞬間までパンクの化身とあろうとし、ロクに楽器も弾けないのにロックの歴史に名を遺した彼の生きざまに、十代の頃の僕は強烈に感化されてしまったのだ。
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