都近くの郊外。
鄧家の主人の荘園でのこと。
風にそよぐ緑のすだれのような柳。蓮のうかぶ広い池。きらきらとてりかえされる太陽の光。
庭のあずまやの椅子に、夜糸と両親が座っていた。そばに春桃がひかえている。
みなそわそわしている。
日利は庭をものめずらしがり、どこかへ行ってしまった。
「まだか?どうしたんだ」
夜糸も両親も不安だった。肝心の男が来ないからだ。
すると、むこうから人が三人歩いてきた。
永達、永達の弟の信達、永達の側近の李遠。
永達は気さくに笑った。
「待たせてすみませんね。こやつら側近が準備にてまどりまして」
「え? それは……」
信達がなにか言おうとした。永達は鄧家の人々からは見えないよう信達のくつをふむ。
信達は痛みをこらえながらだまった。背を丸めおどおどする。
李遠は不愉快そうに眉をひそめた。
夜糸は永達を見ると、表情がぱっと明るくなった。瞳がかがやく。
「お待ちしておりました」
永達のうしろにいた李遠が、そのかがやきを見て、おやと思った。すこしだけ夜糸の瞳が気になった。
それからは全員で荘園の庭を歩いた。
「娘には持参金を持たせますゆえ、なにとぞなにとぞ」
「私などに気をつかわれずともよいのですよ。金銭のことなど気になさらず」
永達は父と金の話ばかりする。
肝心の夜糸といえば、顔を赤らめだまってうつむくばかりだ。
母親がこそこそと夜糸に、
「ほら。なにか話しなさい」
と、せかした。
夜糸は話さなければと思う。だが、なにを話したらいいのかわからない。緊張しすぎて頭が真っ白になる。
うしろからは、信達、李遠、春桃がついてくる。
信達は夜糸と同じようにうつむいておどおどしていた。
李遠はつまらなさそうに虚空を見ている。
春桃は彼らの中にいるのがいたたまれなかった。そこでおずおずと李遠に話しかける。
「私たち、これからめしつかい仲間になりますね。私は張春桃です。なかよくしてください」
李遠は虚空を見たまま、うんともすんとも言わなかった。
春桃は気まずそうに李遠からはなれた。
この男はいやな感じがする。近づきたくない。
しばらくすると、池にかかった橋まで来た。
池の中やまわりのいたるところに、穴のあいた岩が置かれている。ああいう岩はたいへん貴重で、庭にあれば持ち主は金持ちだと思われる。成金はさかんに置きたがるのだ。
周囲にはほかにも柳やあでやかな花が植えられていた。近くには休憩のための小さな建物がある。
「殿下。ところで玄鎖のことですがな」
父がきりだすと、永達が立ちどまった。夜糸の心臓が高なる。
「めとっていただけるでしょうか?」
永達はあごをなで、夜糸をしげしげと見た。夜糸は切長の目を精一杯ひらき、永達に目でうったえかけようとする。
夜糸は永達がうなずくとかたく信じていた。
あの日、永達は約束したのだ。善良で誠実な人なのだから、忘れているはずがない。
当の永達は、内心返事を考えあぐねていた。
この程度の娘なら宦官で十分。前に一度遊んだし未練もない。しかしことわれば鄧家から心づけをもらえなくなる。
それに多くの女と関係した永達はうすうす感じる。夜糸はおとなしくあつかいやすそうでいて、そのじつ暗く執念ぶかい情念がありそうだった。それもいままで見た女の中でもとびきり強そうだ。
もし関係が深まればめんどうになるにちがいない。永達は女に好かれると、いつも重苦しくなり逃げたくなる。だから夜糸のような女をそばに置きつづけるなど論外だ。
しかも夜糸は教育もされ、女にしては知識もある。ほとんどの教育を放棄してきた永達では上に立てないかもしれない。
こまりはて、休憩用の小さな建物に目をむける。
するとその建物から、べつの少女が顔を出していた。満面の笑みをうかべている。
夜糸とまったく同じよそおいで、夜糸よりはなやかでうつくしい娘だった。それになんとなくあさはかそうな雰囲気がある。永達の苦手な情念も、その丸い瞳にはなさそうだった。
永達はその少女を指さし、夜糸の父にたずねる。
「あの娘は?」
夜糸はおどろいて、ばっと指さされた方向をにらみつけた。
「はあ。夜糸の妹の白環でございます。いみなは日利です」
「そうか。妹か。では鄧家からはあの娘をめとろう」
その場のみながおどろいた。
夜糸は信じられず、すがるように永達を凝視した。永達は夜糸のほうを見ない。
父は冷や汗をかきあたふたしている。
「はあ。まあ、鄧家としてはかまいませんが」
夜糸は永達にかけよると、彼の胸ぐらをつかみ顔を見あげた。永達はおろおろとしてみせる。
「なんのつもりだ」
「永達さま。約束したではありませんか」
「なんのことかな」
「私を……」
めとると、とつづけようとしたが、夜糸は自信がなくなってきた。
よく思いかえしてみれば、夜糸は以前永達に会ったとき、めとると約束してほしいとは言った。だが永達は笑っただけ。はっきり返事をしていなかったではないか。
「こら夜糸、やめなさい」
両親が夜糸を永達からひきはなそうとする。夜糸はがんとして永達から手をはなそうとしなかった。
永達が李遠に目くばせした。李遠はめんどうそうに夜糸の腕をつかみ、永達からひきはなす。
「おやめなさい」
夜糸はぼうぜんとし、うつろな目で李遠を見あげた。
そんな目は李遠にはちっともひびかない。先ほどのひっかかりは思いちがいだったのか。
日利が明るい声でさけぶ。
「知ってました?お姉さまは不妊なの。月のさわりがこないんですもの」
夜糸はうつむいた。父が夜糸につめよる。
「夜糸、本当なのか?」
「ち、ちが……」
日利がたたみかける。
「前々からあやしいと思っていたけれど、春桃の話をきいて確信したわ。お姉さまは左腕を切って血をしたばきにこすりつけていたの」
春桃が頭をかかえた。
夜糸の呼吸が不自然にあらくなる。
李遠が夜糸の左腕をつかみ、そでをまくった。
「ふむ。たしかに傷がついている」
「鄧殿。あなたはどういうおつもりだったのですか」
「いえ。その。私もいま知りまして」
「夜糸。どうして私たちに言わなかったの?」
永達がわざとらしくため息をつき、首をふった。父はあわてて頭をさげる。
「なにとぞ、どうか白環をめとってください。おねがいします。それとこのことはどうか内密に」
父上はふところから銭をとりだし、永達にわたした。
「いまはこれしかありませんが、あとでもっと差しあげます」
夜糸は身体の力がぬけ、李遠によりかかった。息がさらにあらくなる。李遠はわずらわしく思った。
「しっかりなさい」
「すべてをかけてきたのに」
夜糸は過呼吸の中でじわりと涙をこぼした。
永達はいやそうにする。
「私が悪いというのか? いやだな。おまえみたいな女はかんべんだ」
永達は小さくつぶやくと、日利のほうに逃げていった。
夜糸の父は李遠や信達にも銭をわたそうとする。
「あなた方も。さあ。ですがどうか内密に」
「いや。私は」
父はむりやり銭をおしつけようとするが、李遠はうけとらない。信達は父の気迫におされ、ことわりきれずにうけとってしまう。
夜糸は永達がむかった先、建物から顔をのぞかせる日利をにらみつけた。
その瞳には、はげしい怒りと憎しみの炎がたぎっていた。
李遠はそこで、自分によりかかかる夜糸の、暗くはげしい瞳をじっと見つめた。
この目、ひかれる。
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