昼間。郊外の永達のやしき。日利の部屋。
卓上には、実家の鄧家の両親からの文が散乱していた。文にはつらつらと親からの文句が書かれている。
『夫をたて、したがい、つつましく、かしこく……』
文のいましめとはうらはらに、卓上や床には、金銀の装飾品や食べかけの食べ物が散乱していた。
窓からさす光のまぶしさに、寝台で眠る日利はようやく起きあがる。
「ふああ。もう朝?」
日利が起きたのを見て、部屋のすみにひかえていた侍女が、べつの侍女に耳うちした。
すぐに豪華な食事が運ばれる。
「太子妃さま、『朝餉』にございます」
「ふふ。しあわせだわ」
しかしむなしさもある。食事が卓に用意されるのをぼんやり見ながら、日利はひとりごちた。
「本当にめとられるとは思っていなかったのよ。ちょっとからかうつもりだけだったのに」
思った以上に大事になった。
両親は姉ばかりに目をかけ、姉ばかりに期待をかけてきた。
実家で日利の居場所はなかった。だから日利は両親の注目や愛情を得るために夜糸にはりあうしかなかったのだ。
だが、もう姉よりずっと上の立場にいる。
なにかやりたいことがあるわけでもない。べつに永達のことがたいして好きなわけでもない。永達もそうなのか、最初の二、三回日利のもとをおとずれたあとは、さっぱり来なくなった。
「退屈ね。これからどうしようかしら」
そこへ、侍女が部屋に入った。かざりひものついた箱を持っている。
「鄧家からお届けものです」
「あら。きっと油だわ。毎日髪につけるのに切れてこまっていたの。このまえたのんだ象牙のくしでとかすとよくなじむのよ」
日利は箱をうけとり、蓋をあけた。
箱の中には赤茶の油の入った瓶と、几帳面に折られた紙切れが入っている。
「なにかしら」
日利は鏡台の前に座り、紙切れをとりだした。字が書かれている。
『おまえの髪がつややかになるよう『翠楼』をまぜたわ。ひさしぶりにいいのがたっぷり手に入ったの。鮮度がいいうちに使ってみて』
送り主は母の名だったが、日利はけげんに思い首をかしげる。
「お母さまの字ではないわ。こんなにきたなくてぎこちなくないもの。お父さまやお姉さまの字ともちがうし」
まるで字の書けないめしつかいのだれかに、むりやり書かせたかのようだった。
それに『翠楼』とはなんのことだろう。
「まあお母さまの名前でうちから来たものだし、なんでもいいわ。ねえ、さっそく髪に油をぬってちょうだい」
「はい」
侍女が日利の髪に油をすりこませ、象牙のくしでとかした。
「ねえ、『翠楼』がなにか知ってる?」
「『翠楼』? ううん。たしかむかしの人が書いた詩の題名でそんなのがありましたね」
「まあ。よく知ってるのね」
「えへへ。姉が後宮の妃嬪(皇帝の妃のこと)になるための勉強でよく口ずさんでいたですよ。私は姉とちがい不出来で使用人として売られましたけど」
「ふふ。あなたとはなかよくなれそう。で、どんな詩なの?」
「ええと。少し待ってくださいね。長い詩なので口ずさまなければ思いだせません」
日利の薄い色の長い髪をすきながら、侍女は歌うように詩を口ずさんだ。
耽美だが、皇帝の側室が、やってこない夫へのはげしい怨恨を吐露する詩。
日利はここちよく詩の世界にひたっていった。
そのうちにこんな一節がでてくる。
あなたをまちわび、いくども御簾をあげていたら、風が雲をはらい月を明るくした。
楼がまるで翡翠のようになったのは、玉臂(玉のように白くつややかな腕)のごとき月が、新緑の柳の枝葉をはらい、下の楼をてらしたから。
それだけが私の心をなぐめてくれる。
翡翠の楼。翠楼。玉臂のごとき月。
「いま『玉臂のごとき月』と言った?」
「そうですよ」
『玉臂のごとき月』という言葉が妙にひっかかる。
玉臂。腕。手首。腕のごとき月。
ひさしぶりにたっぷり手に入った。
かわやで血を下ばきにすりこませる夜糸の姿が思いうかぶ。
日利はぞおっと背筋が冷え、こきざみにふるえた。
「太子妃さま?」
日利は侍女の手をひっぱたき、象牙のくしをなげすてた。
「それを今すぐ焼きすててちょうだい」
「ええ?」
「はやく。けがらわしいわ。それからすぐに髪もあらうから準備して」
「さっきはなかよくできそうだとおっしゃってたのに」
侍女は不満そうに部屋を出た。日利は髪をしきりになでる。
「『玉臂のごとき月』だなんて絶対『あれ』のことじゃない。気持ち悪い」
夜糸の目が、日利の頭にこびりついている。
永達とはじめて顔をあわせた庭での、日利にむけられた夜糸の目。
一度見たら忘れられないあの憎しみの瞳。
平気なふりをしてすましていたが。
「強い怨恨の詩だったわ。呪いでもかけたということ? 本の虫のお姉さまのことだから呪いの方法も知っているはずよ。これは呪いの一種なのかも。このままじゃ呪い殺されてしまう。どうしましょう」
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