荘園の北園。
大きな長屋をぶちぬいた、大きな作業場があった。
建物の周囲は、桑の木をそだてるための桑畑でかこまれていた。育てている蚕に食べさせるのだ。それから綿畑、麻畑など、糸や布の生産にかかせない植物が育てられている。
作業場には、蚕をゆがくための鍋や、糸まき機、機織り機がところせましと並べられていた。
北園の手下は、西園、東園にくらべると少数だった。
畑の手伝いや糸、布作りは、夜にやってくる西園、東園の者にやらせていた。
今晩も、北園の作業場では、農作業でつかれはてた農民たちが、糸つむぎをしたり、布をおっていた。
夜糸と夏桑も、鍋に蚕の繭を放りこみ、ゆがく。こうして繭の糸を採集しやすくするのだ。
夏桑は鍋の中の蚕に、
「ごめんな。ごめん」
と、しきりに謝った。夜糸はほほえむ。
夏桑はやさしい子だ。
「絹はこんなに残酷な方法で作るのね」
ゆがいた蚕の死骸は、家畜のえさや、作物の肥料にする。それからまだ行ったことのない南園にあるらしい、池の魚のえさにもなるとか。
作業場の入り口には、監荘人の王きょうだいの手下が立ち、農民をみはっていた。だが、うとうとしてほとんど寝ている。
「あの手下がさあ……」
農民たちはおもいもいにおしゃべりをはじめ、不満をたれた。
夜糸もまた、夏桑に話しかける。
「ねえ夏桑」
「ん?」
「ここから出たい?」
「べつに」
「じゃあ明日から友だちをやめましょう」
「やだ」
「どうして? すべては天のことわりと自然のままなんじゃないの?」
「そうなったらそうだが、おらはいやだ」
「……でもね、私とのかかわりのせいであなたが罰を受けないでほしいの」
「ここを出るのか?」
「そうよ」
「ここの連中が憎いからか?」
「それもないと言ったらうそになるけど」
「ならおらは反対だ」
「ううん。ちがうの。それ以上に私、どうしてもしなきゃいけないことがあるの」
妹や自分をすてた永達に復讐したい。
「ここにいたらその前にこきつかわれて死んでしまうわ。たしかに食べ物や寝る場所はあるけど、苦痛のうちに安住するより、私は前に進みたい。外に出てけもののようなくらしをしてでもね」
「そうか。そんならおらも協力する。夜糸についていく。命の恩人の夜糸が前にすすむたすけになるなら、おらの命もはるべ」
「ありがとう。あなた、あぶみなしで馬には乗れる?」
「ああ。故郷じゃガキのころから馬に乗って羊を育ててた。夜糸は?」
「私も乗れるわ。祖先が蜱蛄族だったから乗馬の訓練もさせられたの」
二人はこそこそと、ある計画について話した。
夜糸たちは気づかない。すこしはなれた場所でもくもくと蚕のまゆをゆがきながら、夜糸たちの会話にきき耳をたてている女のことに。
女はがっしりした身体に、ひどく陰険な目つきをしていた。
木や竹がうっそうとはえた林の中。
背の高い竹であまれた柵の前には、いつも凶暴な猟犬がうろうろしている。だがこの日はめずらしく、犬は腹をうわむけ、地面にころがっていた。
「よしよし」
夏桑はころころころがる犬をかわいがる。背には大きな麻袋をせおい、おれて小さくなった竹を地面からひろっては入れていた。
「ほんとにこりゃあよくきくなあ」
夏桑はそでにいれた袋をとりだす。
夜糸はといえば、夏桑と同じように背中に大きな麻袋を背負い、小さくなった竹をほおりこんでいた。あいまに柵のすきまから、外のようすをのぞこうとする。
わずかなすきまから、柵の近くの地面が、草におおわれているのが見えた。
「一見なにもない。でもみんな脱走に失敗しているはずだし、なにかわながあるはず」
夜糸は大きめの石をひろい、柵のむこうに投げておとした。
かすかに鈴の音がする。
「もしかして」
柵にそって歩きながら、小中大の石をつぎつぎむこうに投げた。石が大きいほど鈴の音が大きくなる。
「なるほどね」
ガサッとうしろから枝葉をふむ音がしたので、夜糸と夏桑はとびあがった。
ふりむくと、奇妙な男がいた。
背が二つおりの紙のようにまがった男で、真っ白なぼさぼさの髪とヒゲにより、全身がかくれている。まるで仙人のようだ。まがりきった背中には、よごれた布でつつまれ大きな荷物がせおわれていた。
夜糸と夏桑はあぜんとする。
「まだ来ないのかのお。……ん」
老人は夜糸に気づいた。髪のしらみをつぶしながら、まじまじと夜糸を見る。
夜糸は鼻をつまんだ。
ひどいにおい。
老人は背中の荷物からほそながい筒をとりだし、先端を夜糸のほうにかまえた。筒の先端には、表面が湾曲した玻璃がうめこまれている。望遠鏡のようだ。
「な、なに?」
「……おしい。そなたでもよいが、そなたではない。わしの背中の岩がおちない」
「は?」
「そなたは赤い鰐を退治する者ではない」
老人は突然はっとふりむき、冷や汗をかいてあとじさった。
「いまいましい赤い鰐め。また来たか。しっ。しっ。やめろ。あっちへいけ」
老人が見ている先にはなにもなかった。なのにさけんでとんで逃げていく。
夏桑はぽかんとして、
「世の中にはああいうやつもときどきいるらしいな。おらはじめて見た」
「きっと荘園でつらい労働をしいられて気がおかしくなったのよ。かわいそうに」
またしてもがさがさと人の足音がした。今度はみはりの農民たちだった。
「王さん。声がしたと思ったら、あそこにだれかいます」
「なんだ、きさまらは」
『王』とばれた男が夜糸たちの前に立ちはだかった。大柄で筋骨隆々、堂々とした男。
夜糸は考える。
この人、王きょうだいの一人なのね。
みはりの人たちをひきつれているから、東園の監荘人の王元序かしら。私兵を持っているらしいし。
「すみません。最近来たばかりで、命令されて竹をひろいに来たらまよってしまったんです」
夜糸はあらかじめ考えておいたうそをついた。
王元序は夜糸たちを上から下までながめてから、小馬鹿にしたように鼻をならす。
「負け犬が」
夜糸はムッとしたが、つっかかりはしない。元序はいかにも強そうで、怒らせたら自分たちの身がどうなるかわからないからだ。
「ここには近づくな。もどれ」
「はーい」
夜糸と夏桑はすなおに西園にもどった。
道中こんな会話をした。
「夏桑、明後日でもいいかしら? 明日は準備したいの」
「えらくはやいな。おらはいいけど」
「行動するならはやい方がいいでしょ」
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