鄧家のやしき。
自室で、寝台によこたわったまま、白い寝巻きの夜糸は動かない。
あの日から、頭の中に日利と永達がうかび、夜糸をせめたてる。
『お姉さまと結婚したい男の人なんていないわよ。お姉さまより私のほうが美人だもの』
『おまえのような女はかんべんだ』
『しかも、不妊なんて』
目のあたりが痛くなり、じわりと涙がにじんだ。
自分はなぜ生まれてきたのだろう。
生まれてこないほうがよかった。
夜糸は左手首をなでた。赤黒い切り傷がいくつも横ぎっている。
手首は毎日切るようになった。自分の身体がどんどんみにくくなる。
めしつかいの春桃が、心配そうに声をかけた。
「お嬢さま。外にでませんか。気分転換に。いつまでもそんな調子じゃだれでもめいります」
「なにもする気がおきないの。身体がなまりのように重い。だれのせいかしら?」
「すみませんってば。でも白環お嬢さまにはさからえなかったんですよ」
「はあ。わかってるわよ。あなたの言うとおりね。散歩でもしようかしら」
夜糸がゆっくり起きあがり、寝巻きをぬぎだした。春桃はほっとする。
「そうしましょう。最近は春でもさむいですから厚着をしましょうね」
春桃は何枚もの絹の服を用意した。夜糸は緩慢にそれらを着こむ。
「そういえば白環お嬢さまへの文、言われたとおりに書きましたけど……楼、ええっと、あの読めなかった字、あれはなんですか?」
「べつに」
「なにかまぜたそうですが。それに奥さまがたのんだというのも……」
「あなたはなにも気にしなくていいの。ただ日利あての荷物にお母さまが『気まぐれ』に文をそえただけ。第一だれもなにもまぜていないわ」
「そうですね。そうですよね」
春桃はそれ以上なにもきかない。
世の中万事平穏ぶじでいることが一番だ。波風をたてないよう、よけいなことをきいてはいけない。
夜糸は服を着ながらひとりごちた。
「『行動しろ』って、どうしたらいいのかしら。考えても全然思いつかない。くだらないいやがらせをするくらいしかできないわ」
外から、ドタドタと足音がした。
夜糸と春桃はどうしたのかと顔をみあわせた。
鄧家のやしきの中に、男たちが次々入った。かれらの先頭にいるのは、夜糸のおじの鄧通閔だった。
夜糸の父と母は家に侵入した男たちにおどろく。
「なにごとだ?」
「兄上。ごきげんうるわしゅう。非人の女をつれだしにきました」
父と母の前に、男たちに腕をつかまれた夜糸と春桃がひきずられた。
「はなして!」
「ひい。私はただのめしつかいですよ」
通閔は冷たく夜糸をみくだした。
「一族にもメンツがある。不妊の女など鄧家にはおらず、兄上の娘は白環だけだった。そうでしょう」
父はうつむいて考えこみ、母は顔をそむけた。
夜糸は目に涙をため、両親をすがるような目で見つめた。
「お父さま。お母さま。日利みたいにお役にたてなくてごめんなさい。でも私、いままで必死だったのよ。二人のためにお役にたちたかったのよ」
「私は関係ないんですってば」
「この非人は売りはらってきます。兄上はなんの手をかける必要もありません」
「お父さま。お母さま。助けて。すてないで」
夜糸と春桃はずるずるとひきずられていく。
父が口をひらいた。
「夜糸。皇族になるという、子どものころからの夢がかなえられず、つらい思いをしただろう。もう楽になってよいぞ」
夢? それはだれの夢?
「どうかお助けください。でなければ私、金輪際あなた方のことを父母だと思いません」
父も母も無言だった。
「旦那さま! 奥さま! 助けて!」
春桃のさけびがむなしくこだまし、やがてきこえなくなった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!