あけがた、眠っていた夜糸は目をさました。乗りこんだ荷車の縁によりかかり、浅黒い肌のこどもをかかえるように身体を丸めている。
荷車はすでにごとごとと動きだしていた。荷車に乗る人々も、夜糸と同じように座りこんで寝ている。
夜糸がかかえているこどももまだ眠っていた。ちいさな身体はあたたかい。呼吸もやや大きく、強くなっている。生きのびられたようだ。
夜糸は背後をふりかえった。荷車は、朝日がのぼる街からどんどんはなれていっている。遠くでおじの手先の兵たちが歩きまわっているのが見えた。
「これからどうなるのかしら」
夜糸はいやなものを感じていた。行きつく先にはなにが待っているのか。
それでも行くしかない。みずからをおとしめた者たちに負けないために。
ある晩。
成衣県のとある荘園(貴族などの私的な所有地のこと)。
広大な荘園のはずれには、木や竹がはえた林が広がっている。
林の中には、すきまなく組まれた、人の背丈より高い竹の柵がそびえたってた。柵は荘園をぐるりとかこみ、先端はするどくとがっている。
柵の前を、槍や剣を持った農民たちがうろうろとみはっていた。牙をむきだしにした、凶暴そうな猟犬をひきつれている。
柵の近く、林のしげみに、やせこけた農民の男がかくれ、きょろきょろとあたりをみまわしていた。手には分厚い皮の手袋をはめている。
近くにだれもいないと見ると、男は柵の前でおもいきりとびあがった。ぶあつい手袋をつけた手で、とがった柵の上に手をかける。
「こんな生活、やってられるか」
男は腕に力をこめ、身体をひきあげた。組まれた柵の先の、とがっている部分のあいだに足をかけ、むこう側にとびおりる。
そして穴に落ちた。
男が身体にかかった衝撃や痛みになれてくると、柵のまわりが堀のようなくぼみにかこまれていることがだんだんわかってきた。
細いヒモが男の身体にからまり、けたたましい鈴の音がする。まわりから、ぎゃんぎゃんと犬のほえ声がひびきわたった。
「そんな」
堀の中には細いヒモがはりめぐらされ、いくつもの鈴がつけられていたのだ。
堀の上から人の声がする。
「脱走者だ! つかまえろ」
そのすこし前の夕ぐれどき。
夜糸たちの乗った荷車が荘園の木の門をとおった。数日間の移動のあいだに、いつのまにか暑い季節になっていたので、みな日焼けしていた。それでも例年よりはすずしい。
荘園の門のまわりには桑の木が植えられている。前には、大きな木の板が立てかけられいた。板には『南淑杜園』と書かれている。
「ここ、荘園なのね。桑があるから絹でも作るのかしら。桑は蚕のえさだもの」
「……荘園?」
夜糸にかかえられた浅黒い肌のちいさなこどもが、ちいさくつぶやいた。
「おきていたの?」
「まあな。それよりおらが前に売られた先の農村にも、荘園とよばれていた貴族の別荘があったべ」
「ええ。むかしはもっぱら貴族の別荘のことをさしたわ」
「むかし?」
「最近は盧人がへったり異民族が移入して、どの土地もあれ放題よ。だからあまった土地を貴族や豪族たちが勝手に農地として利用して、そこを荘園と言いはってるの」
「へえ。くわしいな」
「私の祖先や父がそうだったのよ。晋の制度では農地じゃなくて『荘園』で作って売ったものなら、税が徴収されないの」
「そんなことしてなんの得があるんだ?」
「税がとられないから蓄財できるでしょう。国もそういう『荘園』から税をとろうと法を変えたりもしたみたいだけど、効果はないと父は笑ってたわ」
荷車が荘園の内部に到着するころには、日は完全にしずみ、あたりはすっかり暗くなっていた。
荷車から人々がおりた。夜糸もこどもをおぶり、おりる。
暗くてよく見えないが、いまいるのは、木々にかこまれた広い草地らしい。動物の糞のにおいが鼻をつく。
ところどころにある、わずかな松明のあかりによって、草地の上に、ほったて小屋があるのがわかった。ぼろぼろだったが、長屋のようで大きかった。
その長屋の中から男が出てきて、夜糸たちをつれてきた、ずるがしこそうな男となにか話した。長屋から出てきた男は、ずるがしこそうな男に銭をわたす。
「へへ、まいど」
ずるがしこそうな男は、夜糸たちに目もくれず、そのまま荷車に乗る。荷車はすぐに動きだし、夜陰に消えた。
急にどこから犬のほえ声、けたたましい鈴の音、それから男の悲鳴がきこえた。
「ひい、南園だけはかんべんしてください」
「うるさい!」
かがり火を持った農民姿の者たちが、やせこけた農民の男を力まかせにひっぱっていた。男は恥も外聞もなくなきわめき、いやがっている。やがて遠くの木々のあいだの闇の中へと消えていった。
夜糸やつれてこられた人々はその光景をおそれ、しりごみした。
「なにあれ」
長屋から出てきた男は舌うちし、夜糸たちにぶっきらぼうに命令する。
「はいれ」
ぶちぬきの長屋では、やせこけよごれた人々が雑魚寝していた。土ぼこりがひどく、悪臭がする。
「そこで寝ろ」
男はどこかに行ってしまった。
つれてこられた人々は、しかたなしにそのあたりのあいているところで横になった。
夜糸は床にこどもをおろし、たおれこむように寝そべった。
「よかった。助かった」
「ああ。よかったな」
けしていい環境ではないが、夜風にあたらず安全に眠れる。食べ物も出ると言っていた。さっきの男のことはすっかり忘れてしまった。
思えばおじに売られる前に、おもいきって行動したから助かったのだ。いままでどおり、自分より強い立場の者に従順なままであれば、売られて殺されていただろう。
あの街の質屋のいいぶんに流されていれば、荷車にも乗れず、おじに追われる身のまま、ここまで来られなかってだろう。
日利の結婚式のときにすれちがった、あの大柄の男の言葉のせいで、夜糸のなにかが変わった気がする。
『行動しなさい』
『なんだかたくましいですね』
『おやしきにいたときとみちがえるようです』
行動すれば変われる。変われば強くなれる。
「行動しつづければ変われる。変わりつづければ強くなれる。そしたら」
日利を殺せるほどになれるかもしれない。
あの人が伝えたかったのはそういうことだったのだろうか。
「なんか言ったか?」
「なんでもないわ。そういえばいまさらだけどあなたの名前をきいてなかったわよね。私は夜糸よ。いみながね。あざなは玄鎖。好きなほうでよんで」
「そうか。夜糸とよぶべ。いみなもあざなもいい名だな」
「へんな名でしょう。夜糸は先祖の部族の神話の神さまの名に盧字をあて字したんですって。玄鎖のほうはむかしの盧人のお妃さまの名前からとったの」
「へえ。すげえや。おらは……だ」
「ごめんなさい。よくききとれなかったわ。もう一度いい?」
こどもはいくども名前を言うが、夜糸にはよくききとれなかった。盧語にはない独特の言葉のひびきがうまく理解できない。
「もういいや。なあ夜糸、あんたの一番の友だちはなんて名だ?」
「友だち?」
そんなのいない。でも答えなければなんだかバツが悪い。
「ううんと、張春桃よ」
「じゃあおらの名前は、そうだな、張夏桑でいいべ。命の恩人の夜糸の一番の親友から考えた。入り口で桑も見たことだし」
「そんなのでいいの?」
「ああ。女の子らしくて、おらにぴったり、だべ」
こども、夏桑はそのまま寝てしまった。夜糸は肩をおとす。
この子、女の子だったのか。
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