暗いかわや。
夜糸はなるべく音をたてないよう入った。
すみのちいさなろうそくがゆらめいた。
夜糸は鼻をそででおおった。悪臭で鼻がもげそうだ。
かわやの床の穴の真下に、大きな壺が置かれている。壺は汚物をうけとめ、たまるとにおう。
夜糸はふところから小刀をとりだした。それで左手首の内側を切る。
べっとりした生あたたかい血が腕をつたい流れた。夜糸は痛みに顔をゆがめる。
夜糸は血をぬいだしたばきにこすりつけた。暗がりの中、血のしたたる青白い手首をながめる。
痛み。生きている実感。なんの価値もない自分を罰しているような快感。
息苦しい日々や、胸に穴があきそうなほどのむなしさを、このときだけは忘れられる。
毎月手首を切ることがくせになり、もうやめられなかった。
暗い廊下。
かわやから夜糸が顔を出した。あかりを持ちきょろきょろとする。だれもいないと見ると、足音をたてないよう外へ出た。左手首には包帯を巻いている。
「お姉さま。なにをしているの?」
夜糸はびっくりして声をあげそうになった。
背後に、あかりを持った日利がにやにやとして立っていた。
「待っていたの?」
「ええずっと。長かったわね」
夜糸はさっと顔を赤らめた。はずかしいが、なにも言いかえせない。
夜糸はそそくさとその場をたち去ろうとした。
すれちがいざま、日利は夜糸の左腕をつかんだ。
「ねえ。本当はなにをしていたの?」
日利はいやらしくにやつき、仰々しくあかりをかかげた。
夜糸はふりはらおうとするが、日利は夜糸の左腕をはなそうとしなかった。
「しらないわよ」
夜糸の呼吸がしだいにあらくなる。
こわい。苦しい。消えてしまいたい。
「教えなさいよ。お姉さまは物事を正直に話すこともできないの? 永達さまがどんな教育をうけてきたのかと思うわよ。あ、もう知ってるか。いつものお姉さまのあのようすじゃ」
「どいて」
「容色も性格も能力も私のほうがずっと上」
「どきなさいよ」
「お姉さまが永達さまにとつげるのはただ長女だから。お姉さまもわかってるんでしょう?」
夜糸の頭にいままでのつらい日々の記憶がつぎつぎにうかんだ。
夜糸がきびしい指導をうけているあいだ、そういう日利がしていたことはなんだ。のんきに遊び夜糸をののしっていただけじゃないか。
カッと腹の奥から怒りの火柱がつきあげた。
「どいてって言ってるでしょ!」
夜糸は激情にまかせ、日利をつきとばした。
日利は尻もちをつき、かなきり声で泣きだした。
「お姉さまがつきとばしたぁ」
「なんだ?」
「どうかしましたか?」
日利の耳ざわりな声を聞きつけ、めしつかいたちがぞろぞろとようすを見にやってくる。
「……しらないわよ」
夜糸は小走りでその場を去った。
日利は泣きさけびながら夜糸のうしろ姿を見送る。
翌朝。
自室で、夜糸はめしつかいたちにきれいにされていた。女らしい桃色の絹の上着。高くゆいあげた髪。小粒の桃花のかんざし。顔にぬりたくられたお白いと紅。
それらでかざりつけられた夜糸に、春桃が感嘆のため息をもらした。
「これなら太子殿下もお気にめすにちがいないですよ」
夜糸は気はずかしくなった。ほめられなれていないからだ。
てれくささから、夜糸はねまきとしたばきを春桃におしつけた。
「これをおねがい」
したばきには赤黒い血がべったりついていた。
「あれ? やっぱり『これ』きたんですか?」
「ええ。でも一日でおさまったわ」
「よかったですね。ところで左腕のほうは、大丈夫ですか?」
春桃はおずおずとたずねた。
春桃はさっき着がえを手伝ったとき、夜糸の左腕の包帯を見ていた。月に一度だけそうしているのもわかっていた。
「なにもきかないで。人にも絶対に言わないでちょうだい。おねがいよ」
「はあ」
春桃はそれ以上口をきかなかった。
夜糸はめしつかいたちをひきつれ廊下を歩いた。
途中でかわやの前を通りすぎる。夜糸は胸のつまったような気分になった。
何度ごまかしたことか。
夜糸には月経がなかった。
女子は十もすぎれば自然とくるらしいが、一向にそのようすはない。
かつて不妊症であった母からきいた。月経のない女は不妊であること。晋国では不妊の女は結婚できないこと。おおやけにあかされれば人間あつかいされないこと。
夜糸はおそろしくなり、身体のことをだれにもうちあけられなかった。
母が結婚できたのは、父が母の身分だけが目当てだったからだ。あとでよその盧人の女に生ませた子を養子にするつもりだったらしい。
母が人間あつかいされたのは、母が親にも話さなかったからだ。父が身分とメンツのためにかくしとおしたからだ。
夜糸も母の真似をするほかなかった。ましてや絶対に永達にとつぎたかったからなおさらだ。
永達を思うと、夜糸の息が少し軽くなった。
洗濯小屋。
女たちが洗濯をしている。
春桃が夜糸の洗濯物を持ってやってきた。
「玄鎖お嬢さまのよ。おねがい」
「ねえあなた」
日利がやってきた。
春桃はおびえ、おずおずとこうべをたれた。
日利は春桃が持つ、よごれたしたばきをねめつめた。
「それのことなんだけど……」
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