幸せとはなんなのか。
鄧家は山岳の異民、蜱蛄族の子孫。
それゆえ一族は長年晋国でもっとも多い民族の盧人から差別されてきた。
父は、娘やその子孫に同じ屈辱をあじあわせたくないと言う。わが子は妻の長くつらい不妊治療の末にできたからと。
おまえを世間のだれからも嘲笑されないようにしてやりたい。だから盧人の有力者と結婚させたい。幸せにしたい。
それが父の口ぐせだった。
父はなんと盧人の皇族とのツテを得、娘をめとらせると約束させまでした。
それからきびしい花嫁修行がはじまった。
父の言うとおりそれが幸福なのか、わからない。なぜなら……。
琴の先生のやしき。
正座した夜糸は、冷汗をかきながら琴をひいた。まわりではおなじ年ごろの娘たちが同じように正座し、同じ曲をひいていた。
うしろでは夜糸の母がじっと夜糸をながめている。
先生が夜糸の背中を鞭でたたいた。夜糸は小さくうめく。
「ちがう。そうじゃない。なんど言えばわかるの」
まわりの娘たちはくすくす笑った。
母がため息をつく。夜糸はずんと心が重くなった。
「もう一度やりなおし」
切長の目をふせ、夜糸は琴の弦に指をあてた。だが指が動かない。
まちがえるのがこわい。
「どうしたの? 早くして」
習字の先生のやしき。
夜糸は筆をにぎり、紙に字を書いた。
夜糸の手は緊張でふるえ、字の線はぐにゃぐにゃとゆがんだ。書かれた字は読めたものではなかった。
先生と母がため息をついた。夜糸は青ざめてうつむいた。
経典の先生のやしき。
先生が書物を読みあげているあいだ、夜糸は正座しながら、くいいるように字を一つ一つ追いかけた。紙の上の墨が鼻先につきそうなほど、顔を書物に近づけて。
ほかの子どもたちは退屈そうにしていた。
「鄧さん、次の文を読みあげてみて」
急に声をかけられ、夜糸ははっとした。
書物を読みあげようとする。
だが読み方が合っているのか、どんどん自信がなくなっていった。
不安で声が出ない。
まちがえないように必死で書物の字を追っていたのに。
「わからないの? どうなの?」
夜糸は怖くなり、動けなくなった。
「わからないならそうとお言い。まったく近ごろの子は」
夜糸は赤くなり身をちぢませた。
夜、鄧家のやしき。
夜糸、母、妹の日利は食卓をかこんでいた。
「あんたは昔からそうだ。どんくさくてものおぼえが悪い。器量も日利におとる。だれに似たのか」
「お姉さまはなんにもできないわよね。なにをやらせてもだめ。本当にあの方にむかえてもらえるの?」
母と日利は夜糸への雑言をはきだした。食事はぱくぱく食べる。
夜糸は食事がのみこめなくなった。
「どうしたのお姉さま? 本当のことを言っているだけでしょう?」
日利はつんとすましている。
「日利の言うとおりよ。いい加減にしなさい」
母親は日利をしからない。
いつもそうだ。
鄧家の長女の夜糸は、皇族のいいなずけとなって以来、きびしく育てられた。両親が多大な期待をかけているからだ。
生まれると予想していなかった次女の日利は、放任されのびのびと育った。
親は日利をしからない。だから日利は夜糸に言いたい放題だった。
日利は夜糸のやることなすことすべてを否定し、けなした。
夜糸の好きなものもすべて否定した。
夜糸の将来もさんざんあざわらった。
鄧家で一番夜糸にきびしいのは日利だと言ってもよかった。
そんな妹が夜糸は大きらいだった。だが夜糸は強くでれず、いつも日利に言いまかされた。自分がおとっているのはたしかだと思っていたから。
いまも言いかえせない。
夜糸の呼吸が不自然にあらくなった。
母はあきれたような顔をした。
「なぜ泣くの? あなたのために言っているのよ」
日利はすましたままだった。
夜糸はうつむいたまま涙をぬぐった。
夜糸の部屋。
ろうそくのあかりにてらされた寝台の上。
夜糸はしきりに目尻をこすりながら、一生懸命書物を読んだ。
そのあいだ、めしつかいの春桃が部屋の掃除をする。春桃は夜糸と同じくらいの年ごろの娘だ。
春桃は夜糸にきこえないようにつぶやいた。
「私、名家のお嬢さまに生まれなくてよかった」
「春桃、なにか言った?」
春桃はとりつくろってへらへらと笑った。
「いいえ。ずうっとお勉強でたいへんですね」
「だってとうとう明日あの人に、永達さまに会うのよ。なにをきかれても粗相のないように勉強しなくちゃ。だってあの人だけは私の……」
夜糸は言いかけてやめた。明日会う皇族の永達のことを思い、気はずかしくなったのだ。
すらりと背が高く優雅な物腰。色白のととのった面だち。
楽しい会話。それから甘い思い出。
思いだすだけで胸が高なる。
彼を忘れたことは一日もなかった。
「そうですよね。ところで『あれ』は大丈夫ですか?」
「え?」
「玄鎖お嬢さまは毎月この時期じゃないですか。明日は大丈夫ですか? 今月はまだ『あれ』の洗濯物がないがないですよね」
「ええ。そうね」
夜糸は書物に目をもどした。読むふりをしながらじっと考えこむ。
しまった。永達さまに会うことで『あれ』を忘れていた。
夜の暗い廊下。
夜糸は足音をたてないよう、そっとかわやのほうへ歩いた。
通りすぎた書斎で、両親がなにか話しているのには気づかなかった。
「どうだ? 夜糸は」
父親が問うと、母親は首を横にふった。
「明日が心配ですよ。日利とちがってなに一つとりえがないんですもの」
「そうか。いっそ日利が長女だったらなあ」
書斎の戸の横、ものかげでは、日利がきき耳をたてていた。
日利はにやりとすると、夜糸の歩いたほうへむかった。
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