皇宮周辺の街の市場は、人でにぎわっていた。
人ごみの中に、浅黒い肌の男がまぎれていた。上から下まで真っ黒な服を着ている。
武官の韓季沖は、すこしはなれた場所から黒ずくめの男を尾行していた。
男は季沖のほうをちらちらとふりかえっている。季沖に気づいているようだ。
ふと、魚売りが季沖の前へ来て、ぐいと大きな魚をおしつけた。
「魚はいらんかね」
「けっこうだ。どいてくれないか?」
急に黒ずくめの男が走りだしたので、季沖はいそいで追いかけた。
建物の角をまがったところで、季沖は黒ずくめの男の姿を見失った。かわりに彼は乱暴に近くの店の戸をあけた。
店の中では、店番の男がひまそうに鼻歌を歌っていた。
「このあたりであやしい男を見たか?」
「はあ。あちらへ走っていったようですが」
季沖は店番に言われた方向へ走った。
季沖が去っていったのを見て、店の中ではかくれていた黒ずくめの男がひょっこり頭を出した。息をあげ、汗をかいている。腕をまくると、右腕の刺青があらわになった。
「今晩にでも晋国を出て国へもどろう」
「この店は気に入っていたんだがな。あのくされ軍人め」
店番の男も腕をまくった。右腕には、黒ずくめの男と同じ刺青がされていた。
突然、戸がけやぶられたので男たちはとびあがった。
ずかずかと店に入ったのは季沖だった。
「見つけたぞ。くされ間者め」
兵士たちにより、右腕に刺青のある男が二人、店の外へひっぱられていった。
「李隊長にも報告するか」
ふと、季沖はだれかに見られている気がした。あたりを見わたすがだれもいない。
「気のせいか」
遠くから、黒ずくめの男が季沖をにらんでいた。黒くたけの長い上着に、黒い頭巾を頭からかぶり、目をおおいかくしている。
右手のそでの下からは、刺青がちらりとのぞく。
皇宮の門の前。
馬を走らせていた李遠は、門番に令牌(命令を伝える札のようなもの。この作品では官吏の身分証のようなものとする)を見せた。
「李隊長ですね。お通りください」
門番は拱手し、李遠を通した。
皇宮の中の廷尉府(司法や刑罰をつかさどる役職)に、とりしらべの殿があった。そこにいく人かの兵が集まっていた。
馬に乗った李遠は、その殿まで来ると、あぶみ(馬具の一種。騎乗のさい足をかける)に足をかけ馬からおりた。
「このあぶみというのは本当に便利だ」
あぶみは最近騎馬民族がとりいれだし、晋国にも広まりつつある馬具だった。
あるのとないのでは乗馬中の身体の安定ぐあいがちがう。
李遠は、集まっている兵士の中に韓季沖がいるのに気づいた。季沖は李遠の部下だった。
「季沖。報告はうけた。隣国の間者をつかまえたそうだな」
「もうしわけありません。廷尉どののとりしらべの途中に舌をかんでしまったそうです」
「そうか。このごろは隣国から間者がやたらと来る。やつらは右腕に刺青を入れる習慣があるゆえ見つけやすいが。なにを考えているのやら」
「おや。李どの」
廷尉府の長、鄧通閔がやってきた。このご時世にもかかわらず、腹がでっぷりとでていて、不健康そうだった。
通閔のうしろには、晋国の丞相、陸頌雅がいた。
ほりがふかく、一目で異民族だとわかる顔だちの陸頌雅は、北の異民族、騭族の出身で、異民族にしては異例の出世をしていた。
鄧通閔とは反対に、やせてほねばり、陰気で不健康そうだった。
李遠は二人にむかって拱手した。
「陸丞相と鄧廷尉にごあいさついたします」
陸頌雅はふしがちな目でじっと李遠を見つめた。
李遠は陸頌雅をにらんだ。
頌雅は仕事の関係で李遠に会うと、李遠をふくみのある視線で見るのだ。李遠はその視線が不愉快なので、いつもにらみかえしていた。
頌雅はゆっくりと言葉を発した。
「李隊長。韓什長(什長は武官の位の一つ)はてがらをたてました。みとめてあげてください」
「死なれてしまっては意味がありませんよ」
鄧通閔はしきりにたるんだ顔からはえたヒゲをなでる。
「いやいや。間者のうわさをきき瞬時にとらえた手腕には感心した。やはり有能な方だ」
季沖はまじめくさって、
「いたみいります。ですが、すこしでも不穏な動きや不正があればただすのがわれら武官の役目です」
と、言ったので、鄧通閔がけわしい顔でせきばらいをした。
陸頌雅はしのび笑いをした。季沖はきょとんとする。
李遠は苦笑した。
通閔は『不正』について、身におぼえがあるらしい。いまの世の中『不正』をしていない官のほうが少ない。そんなことを知らないのは清廉がすぎる季沖くらいだ。
李遠は話題を変えた。
「廷尉こそ異例のはやさで出世されたではありませんか。季沖は足元にもおよびません」
鄧通閔はにやにやとした。
「じつはめいのおかげでね。皇族にとついでくれたおかげでさらにいいツテをつかめ出世できたのだ。まあ、そのツテをつかんで兄上によこしたのは私だが」
そこで李遠はあることに気づいた。
鄧といえば、あの姉妹の姓ではないか。
「その皇族とは永達太子のことですか?」
「おや、よくぞんじておられる。李隊長はお耳がはやい」
「じつは一族からは太子の助けになるよう言われているのです」
「どうりで。では李家と鄧家は永達太子の、ひいてはそのご母堂の杜夫人(夫人は妃の位の一つ)と、おじの杜大司馬(大司馬は軍事の最高職)ら、杜一族派の同志ということになりますな。心強い」
李遠はにやりとし、永達とのみあいの場や、皇宮の前で憎しみの炎を目にやどしていた娘を思いだした。
ちょうどいい。あの娘には強く育ってほしい。試練をあたえてやろう。
「廷尉。めいごどのの、姉のほうについて小耳にはさんだことがあるのですが」
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