「灰賀君……えへへぇぇぇぇぇ~、灰賀く~ん」
俺の膝の上でにへ~と笑う女性の名は神矢想子。人間変われば変わるもので二か月くらい前まで堅物が服着て歩いてるような女だったが、今は見る影もなく、だらしない顔で笑い、挙句、俺の頬に頬ずりしてくる始末。何があったら劇的な変貌を遂げるんだ?
「うぜぇ……」
俺の胸に彼女が持つ二つの果実の柔らかな感触が伝う。巨乳ではないが、洋服越しでも感触が分かるから貧乳ではないらしい。って! 胸の感触について解説してる場合じゃねぇ!! 今は何があったか聞くところだが、膝の上に乗せた途端これだ。話どころではない。こうなった経緯は簡単で抱っこをせがむ神矢想子と俺が対決した結果、俺が折れた。それだけだ。
「うぜぇって言ったぁ~! 灰賀君は私の事嫌いなんだぁ~! びえ~ん!」
びえ~ん! じゃねぇよ。マジ歳いくつだよ……幼稚園児か?本当にめんどくせぇ……
「好きじゃねぇけど、嫌いでもねぇよ」
「ほんと……?」
「本当だ」
いちいち泣きそうな顔になるなという不満をグッと飲み込む。不満を言ってしまうと話が前に進まない。いつから泣き虫になったかの話だけで朝……下手したら一日が終わりそうだ
「何があっても私を見捨てない?」
「見捨てねぇよ。つか、いい加減何があったか話せ。平静を保っちゃいるが、これでも混乱してるんだ」
クセのある連中に囲まれてなかったら絶対に取り乱していた。今冷静でいられるのは我が母や零達のおかげと言っても過言じゃない。いい事……ではないんだろうが、早織や零達に感謝だな
「う、うん……じゃあ、話すね。星野川高校を去った後、私は常勤教師として灰賀女学院に勤務する事になった。これは灰賀君も知ってるわよね?」
「知ってるも何も星野川高校からアンタを追い出したのは俺だ。知らないわけがない」
彼女の勤務形態は分からない。婆さんからは神矢想子を灰賀女学院で教師として雇い、更生させるとしか聞かされてない。勤務させ、最初にするのは過去の清算だとは言われたが、その後の知らせは婆さんからも零達からも一切なかった。雇う側の婆さんからはともかく、生徒側の零達から神矢想子に関する悪評を聞いた事がないって事は教師としてちゃんと働いてる証拠なのだろう
「そう……よね……」
神矢想子の表情が一瞬暗くなる。俺がした事は彼女にとって悪い事だったのか?教職という道を閉ざさせたわけじゃないのに罪悪感を感じてしまうのはどうしてだろう?
「ああ。んで?星野川去って女学院に行った後、何があったんだよ?」
神矢想子のような自分の見たものや知ってる事が全てみたいな考えを持つ人間が変わるのは簡単じゃない。変わるのが簡単じゃなかったら変えようとするのはもっと大変だ。だが、彼女は変わった。久々の再会で恨み事の一つでも言われると思ってた。実際は俺をご主人様と呼び、膝枕をし、あまつさえ縋り付いてきた。何があったらこうなるんだ?
「元生徒の家に謝りに行ったら存在を全否定され、実の両親には“お前には人としての価値はない”って言われて勘当されたわ」
元生徒の件は直接見たわけじゃないが、資料は除外しても飛鳥にした事を参照すると存在の全否定まではいかずとも指導方法を否定されるくらいはされても不思議じゃないと思う。気になるのは元生徒の家に謝りに行きました、存在を全否定されました。全否定されたのは親から?元生徒本人から?どっちだ?
「飛鳥にした事だけを考えてもアンタのした事は許せなかったんだろ。俺は当事者じゃねぇから何も言えないが、存在を全否定せずとも指導方は否定されてもおかしくないんじゃねぇの?」
「そう……なのかしら……」
「知るかよ。俺はアンタから指導を受けた事ねぇから」
関わりはあった。指導された記憶は全くない。俺と彼女の関係は可もなく不可もないといった感じだ。飛鳥の事でコイツに怒りにも似た感情は沸いた。殺意を抱いたのは彼女ではなく、当時いた星野川高校の教師。個人的に神矢想子という人間に思うところなど何一つないのだ
「そう……よね……」
「ああ。俺はアンタが生徒にどんな指導をしたか知らねぇ。だが、一つ気になる事はある」
「何かしら?」
「存在全否定されたって言ってたが、それは元生徒本人なのか?それとも、元生徒の親からなのか?」
「元生徒本人からよ。“ロクな指導力もないのに教師なんてするな!”“アンタなんて来なければよかった”“死ね”って言われたわ」
教師だからこそ彼女が言われた言葉は心に刺さるものがあったのだろう。だが、この程度で心が折れるのかと聞かれたらどうなんだろうか?とりあえず次だ。
「自分がしてきた事への結果だな。でも、その程度で心折れるようなタマじゃないだろ?マジ何があったんだよ?」
存在の全否定はともかく、親から勘当されたところで稼ぎさえあれば一人で生きていける。彼女は教師だから食いっぱぐっれる事はない。絶望する原因としては弱いような気がする
「元生徒に全否定された時は教師として自信を失ったわ。親から勘当されたのも元を正せば自分が原因。そうされても仕方ないと割り切っているわ。でも……」
「でも何だよ?全て自分の行いが原因なんだから甘んじて受けるしかないだろ」
「分かってるわよ……元生徒に全否定されたのも親から勘当されたのも全て自分のせい。そこは受け入れてるわ」
「なら星野川高校を去った後の話は終わりだ。次はどうして俺をご主人様と呼んだり依存しかけたりしたか教えてもらおうか?」
神矢想子が星野川高校を去った後、何があったかは大体分かった。案の定って部分しかなく、特に驚くような部分はなかった。本人も甘んじて結果を受け入れてるみたいだし変貌を遂げた直接の原因ではないのは明白だ
「元生徒に存在を全否定された事はダメージはあったけど、そこまでじゃなかったわ。でも、実の両親に勘当された事はかなり心にきたの……実の親なんだからどんな事があっても絶対に見捨てられはしない。そう思っていたわ。だけど……」
「実際はそうじゃなかった」
神矢想子は無言で頷いた。絶対に自分を見捨てたりしないと思っていた実の親に見捨てられたのがかなり堪えたのか……。
「勘当を食らうだけだったらまだマシだったわ。灰賀君も資料を読んで知ってると思うけど、私は子供の学校生活を滅茶苦茶にしてしまった。教師をしていた両親からすると私の行動はとても許せるようなものじゃなかったらしいの」
教師が生徒を不登校や引きこもりに追い込む。生徒を自殺に追いやる教師がいるこのご時世でどんな人物が教師に相応しいか俺には分からない。一つ言えるのは教え導く立場の人間が自分の教え子を追い詰めるのは間違っているって事だ
「そういや、アンタの親は両方とも教師だったな。すっかり忘れてた」
神矢想子に関する資料を読んだ時に父・母の職業は教師って書いてあったのを思い出した。家族構成を始めとした経歴に全く興味なかったから今の今まで忘れてたけど。
「忘れないでよ……両親の事はともかく、私を忘れないで……」
誰も神矢想子を忘れたとは一言も言ってない。被害妄想もいいところだ。何があったかは本人の口から聞いて知ってる。信頼してた親から勘当されて辛かったのも解からなくはない。だが、彼女から話を聞いたところでこれ以上得られるものは何もない。アホなデタラメを吹き込んでくれた婆さんにでも聞くか……
「忘れないっつーの。それより、少し電話するから離れては……くれないよな」
「当たり前でしょ。灰賀君は私の最後の希望なんだから」
「俺はいつから魔法使いになったんだ?まぁいい。ちょっと電話するから静かにしててくれよ」
「分かったわ」
俺はポケットからスマホを取り出すと電話帳を開き、婆さんの番号を呼び出し、電話を掛けた。最初から婆さんに電話しておけばよかったと後悔するが、爺さんと同じテンションで来られたら堪らん。婆さんに限って朝からウザいくらいハイテンションだとは思えねぇが……
『何だい?恭。もしかして想子ちゃんの事?』
さすが婆さん。2コールで出てくれた。テンションもいつも通りで安心だ。
「ああ。よく分かったな」
『スクーリングの引率をきめたのはあたしだよ?どうして恭があたしに電話できたかは不問にするとして、あんたが電話してくるって事は……』
「神矢想子と再会した」
『そうかい……それで?あたしに何を聞きたいんだい?』
「俺をご主人様って呼ぶようになって依存体質になりかけてる理由」
『何だい、そんな事で朝っぱらから電話してきたのかい』
婆さんは溜息を一つ漏らした。下らない事で電話するなと言わんばかりの物言い。確かに婆さんからしりゃ下らない事だが、俺にとっては重要な事だ。何しろ人格が百八十度違うんだから
「婆さんにとっちゃ下らなくても俺にとっては重要なんだよ。アホなデタラメ吹き込んだ事ネチネチ責められたくなきゃとっとと話せ」
『想子ちゃんが星野川高校を去り、ウチの学校に来た後の話は聞いたのかい?』
「ああ、さっき本人から直接聞いたよ。元生徒に存在を全否定された事と実の両親から勘当を食らった事だろ?」
『それ知ってるなら話は早い。想子ちゃんが恭をご主人様って呼ぶようになったのはあたしがそう調教したからだけど、まさか依存しかけるとは思わなかったねぇ~』
予想外だ。婆さんはそう言いたげだった。俺はどうやって神矢想子を調教したか非常に気になるところなんだが……
「非常に気になるワードが出てきたのは気にしないとしてだ、神矢想子が俺をご主人様って呼ぶようになったのはアンタのせいって事でいいんだな?」
『そうだよ。それに関しちゃあたしが仕組んだ。依存しかけてるのはあの子に元からそういう素質があったからとしか言いようがないねぇ……。あたしの見てた限りじゃ元生徒から存在を否定された時も両親から勘当された時も独りは寂しいってトイレで泣いてたみたいだしね』
神矢想子も零達の同類だったか……と思うと納得している自分がいる。何をどう調教したら高校生のクソガキをご主人様と呼ぶようになるのかは……聞きたくない。婆さんの闇に触れてしまいそうで怖い。まさか爺さんも……と邪推しそうだ
「どうやったら高校生のガキをご主人様って呼ぶようになるのかは聞かないでおくが、これだけは聞かせろ」
『何だい。これから職員会議があるんだから手短に頼むよ』
「大丈夫だ。時間は取らせん。神矢想子にアホなデタラメ吹き込んだ理由を聞きてぇだけだからな」
『アホなデタラメ?ああ、恭に言う事聞かせるには身体を差し出せって言ったアレかい。アレは恭なら想子ちゃんを絶対に見捨てたりしないだろうけど、万が一の事を考えた保険だよ。これと言って深い意味はないよ』
婆さんの開き直りにも近い発言にキレそうになったが、そこはグッと堪えた。膝の上にいる神矢想子をビックリさせないために
「アホなデタラメ吹き込まないでくれませんかねぇ……」
『仕方なかったんだよ。実の両親に見捨てられ、唯一頼りになりそうな姉は何年も前に亡くなってる。あの時の想子ちゃんは心の拠り所を作ってあげなきゃ今にも壊れそうだったんだよ。恭なら想子ちゃんも受け止められると思ったんだ』
婆さんに信頼されんのは孫として嬉しい。だが、身体をどうのはさすがにねぇだろ……
「だからって身体を差し出せはねぇだろ……」
『うるさいね。とにかく、想子ちゃんの事は恭に任せるよ。あの子生徒や他の先生の前じゃ気丈に振舞ってるけど、結構寂しがり屋だからそこんとこ頼んだよ』
そう言って婆さんは電話を切り、俺も電話を切ってポケットへ戻した。二人の話を纏めるとこうだ。神矢想子は星野川高校を去った後、灰賀女学院に勤務。過去の清算の為、元生徒のところへ行くも存在を全否定された挙句、実の両親には勘当を食らってしまった。んで、心の拠り所を失った彼女に婆さんが登場。俺の名前を挙げ、今に至る。え?もしかして神矢想子とも同居しなきゃいけなくなる感じ?
「頼んだよって言われても……俺にどうしろって言うんだよ……」
俺は寂しさを抱えている人間の扱い方なんて知らねぇぞ……
「灰賀君……ずっと私の側にいてくれるんだよね?」
婆さんの無茶振りに頭を悩ませていると神矢想子の両腕が俺の首に回され、彼女の方を見ると瞳に涙を溜め、不安気な表情を浮かべていた
「ずっとっつーのはこのスクーリング期間でのずっとか?」
「スクーリングが終わってもよ。私にはもう灰賀君しかいないの」
もうめんどくせぇよ……何が面倒って信頼できる全てを失った神矢想子が最終的に縋り付いたのが俺だってところだ。なんつって両親が彼女を切り捨てたのかは知らねぇし知りたくもねぇが、ショックだったのは解かる。婆さんがどこでどうやってコイツが寂しがってるのを知ったのか、彼女がどうしていきなり寂しさを感じたのかは知らねぇ。俺には関係ないし興味もない。変貌した理由を聞かなくてもよかったくらいだ
「依存されても困るんだがなぁ……まぁ、俺の側にいたきゃ好きにしな」
俺はこう答えるしか出来なかった
「うん! ずっと側にいるね! ご主人様!」
早いとこ彼氏の一人でも作ってくれ。満面の笑みを浮かべる彼女にそんな事言えやしない。俺は溜息を吐き、彼女の頭を撫でた
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