*この作品は健全なフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません
瑶夏と会話を交わしながら、僕はこれからどう話を持っていくかを考えていた。瑶夏は僕に相談に行くことを、ウルルに話したといっている。ウルルがそれを止めなかったってことは、彼女にしてみれば、「美味しいところは既に吸い尽くしたんで、この子がアンチにならないようにうまくやってくれ」ってことかもしれない。
ウルルの絵図のまま動いているようで、少しばかり癪に障ったが、この世界は持ちつ持たれつだ。それは、この相場の世界だって例外じゃない。ガチに張り合うのは、売り方と買い方に分かれた時の、仕手戦の時だけでいい。
「あのね、僕は思うんだけど、君のお父さんがあの大栄さんだっていうのなら、亡くなったおじいさんだって、君が株をやるのには反対するんじゃないかな」
「はい。それは本当にそうですね。バカだったな、私……」
瑶夏の父親があのI氏であるならば、なおさら僕は、彼女を相場から引き離さなきゃいけないと思った。晩年は悲惨だったとはいえ、I氏の知名度は兜町では絶大だ。瑶夏が彼の娘であることが世間に知れたら、彼女を神輿に担ごうとする奴が出てこないとも限らない。
「僕は君のお父さんと話したことはないけど、大栄さんが関わってた相場の事ならよく知ってる」
「そうなんですか?」
「ああ、当時の僕はまだ駆け出しだったけど、僕の師匠は、大栄さんの指南役の一人だったからね」
「伊集院さんにも、やっぱりお師匠さんが居るんですね」
「そりゃそうさ……。最初から上手くやれる奴なんて、この世界にはいやしないよ。どんな奴でも一度や二度は全財産を吹き飛ばして、それから分かることが沢山あるんだ」
瑶夏はきっと、ウルルの事を師匠として敬愛しているのだろう。だが、もしこれからも彼女がウルルと付き合っていくのなら、体を売っても追いつかないほどの借金を抱えていくことになる。それは流石に可哀そうだと僕は思った。
「父について知っていることを、何か聞かせてもらえないですか?」
「どうして?」
「実は私、父の事はほとんど知らないんです。いなくなった時はまだ小学生だったし、話題に出すとお爺さまが怒るので……」
「そうか……」
瑶夏が父親について、どれくらい知識があるのかは分からない。だが、調べたところで悪い噂しか出てこなかっただろう。あまり記憶がないとはいえ、実の父が悪く言われてるのを見て、気持ちの良い娘が居るはずもない。僕は目の前にいる瑶夏を、少し慰めてあげたいと思った。
「多分君は、これまで周囲から、お父さんの悪口しか聞かされていないと思う。だけど大栄さんは兜町のヒーローだったんだ」
「ヒーロー?」
その言葉を聞いた瑶夏の顔は、一目で分かるくらいに明るくなった。自分には無関係なこととはいえ、実の父がしでかしたことについて、多少の後ろめたさを感じていたのかもしれない。
「ああ。君のお父さんは、バブル崩壊後のあの冷え切った相場の中、何百億もの資金を市場に持ち込んでくれたんだ。提灯を付けた人間の資金も合わせたら、一体いくらになるか分からない」
「本当ですか?」
「本当さ。彼はこの世界でしか生きていけない僕らみたいな人間を、何人も救ってくれたんだよ」
バブル崩壊後の九十年代、ITバブルというあだ花が咲くまでの間、相場で食っていこうと思うなら仕手株に張るしかなかった。僕の師匠はK氏と呼ばれ、I氏もまた、仕手株全盛期の本尊として大いに名を売った人間だ。
正直に言えば、I氏自身にトレードの才覚はなかったと思う。だが、僕の師匠はじめ、指南についたメンバーが強者ぞろいだった。彼らは次から次へと銘柄を乗り換え、クソ株の株価をカチ上げていった。一般投資家の間にも、次第に怒野の名は知られてゆき、彼の名字にちなんだ『怒りの会』という仕手集団が出来た位だ。
だが彼らは、人を嵌め込む力には長けていても、長い時間をかけて大相場を作るという美学に欠けていた。神輿であるI氏の振る舞いも、次第に傲慢になっていった。彼が介入したという噂だけで株価が跳ね上がるものだから、自身の能力を見誤ったのだ。
失望した僕の師匠は、彼の指南役から降りた。そして、師匠が下りた後のI氏の末路は悲惨だった。師匠は他の指南役の横暴を防ぐ、最後のタガだったからである。
「大栄さんが、自身の判断で売ったり買ったりしてるうちは、まだ良かった。だけど、あの時は仕手株が全盛の時代だったから、自分で相場を作りたいと思うようになったんだね。それで、会社の金にも手を出してしまった」
「はい。会社に百億円もの損害を与えたって、お爺様は怒ってました」
師匠が抜けた後、他の指南役はI氏自身を嵌め込むことに専念した。その方が遥かに手っ取り早く、リスクも少ないからだ。素人とはいえ、全部自分の判断でやってれば、彼は百億も負けなかっただろう。だが彼は、それまで通りに指南役の持ってくる銘柄を仕掛けつづけ、身内と信じた人間の玉を次々と嵌め込まれていったのだ。
あんなに沢山いたI氏のファンも、彼の指示には従わなくなっていった。彼はあっという間に、それまでの勝ち分をすべて吐き出し、相場の損金は雪だるま式に膨らんだ。そして持ち出しが発覚するその日まで、彼はその損金を、会社の金で埋め続けたのである。
彼は業務上横領で起訴された。だが、彼の手元に金が残っていた訳ではない。I氏が兜町に住む悪党どもに嵌め込まれ、巻き上げられた金の累計が百億だ。だが、そんな悲しい事実を彼女に突きつけたって仕方ない。僕は徹底的に、I氏を持ち上げようと思った。
「確かに大栄氏は百億円もの大穴をあけた。でもその百億円は、どこかに消えてなくなった訳じゃない」
「消えてなくなった訳じゃ無い?」
「ああ、そのお金は市場を通して、誰かの懐を潤したんだ。つまり君のお父さんは、少なくとも百億円分は誰かを幸せにしたのさ」
再び市場に返ってきた分野、社会に還流された分を考えれば、それ以上だろう。
「喜んでくれた人も、ちゃんといたってことですよね?」
「そうだ。会社の人たちは、大栄さんの事を悪く言うだろうけど、君が気に病むことはない。恩恵を受けた人間は沢山いたはずだ。君の目の前にも、一人いる」
「伊集院さんも……」
「大栄さんはちゃんと罪を償った。横領されたお金も、会社の損金としてちゃんと処理されたんだ。それに彼は、どんなに苦しくても自社株にだけは手を付けなかった。百億が全部、会社から消えた訳じゃない」
「そっか……よかった」
瑶夏は心底ほっとした顔をした。後はこの子に、「もう二度と、相場なんて張るんじゃないよ」と言ってあげるだけだ。だが彼女は、次の瞬間、とんでもない爆弾を僕に向かって放り込んできたのである。
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