*この作品は健全なフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません
「とても悲しいお話ですね。でも流石に、人を殺した人なんかは、大体捕まってるんじゃないですか?」
「いや、全然捕まらないよ」
「ええ!?」
「捕まった人しか報道されないから、全員がお縄になっているように感じる。だが実際は、捜査すらされてない人間の方が圧倒的に多い。勿論、殺人の確実な証拠があれば調べざるを得ないだろうが、ちょっと人が消えた位で、お上は動いたりしないんだよ」
「えっと……。一体、何の話をしてたんでしたっけ?」
伊藤さんは、ちょっと不思議そうな顔をした。
「相場に負けた奴、あるいは勝つためには手段を択ばない奴は、何でもやるってことだよ。だって、【死体が出なければいい】んだから」
「えっ?」
「相場は本尊がバレたらおしまいだ。資金の多寡が知れるし、ヤクザにガラを抑えさせれば、相場は簡単に終わる。仕手とヤクザは、持ちつ持たれつの関係だといっても過言じゃない」
僕は吐き捨てるように、そう言った。ヤクザを甘く見て、相場の絶頂期に射殺された男すらこの町には居るのだ。売り方にも買い方にも、必ずなんらかの反社会組織か、政治家がついている。まだネットがなかった時代、ケツモチの存在なしに仕手をやることは、絶対に不可能だった。
「勿論、今は時代は変わった。政治家たちは、助成金のおかげで金を集める必要がなくなったし、ヤクザも相手のタマをとってまでシノギをやろうとはしない。組が潰されたら、元も子もないからね」
「はい」
「僕も今では、彼らとの付き合いは断っている。でもこの世界には、今でも裏社会との付き合いがある人間が沢山いるんだ。これからは、十分に気を付けてくれ」
「よく分からないけど、伊集院さんが私の事を心配してくれてるっていう事だけは、分かりました」
「そうか、ならそれでいい」
少し酒も回ってきていた。えつ子さんはいつも重役出勤だが、十七時にはきっちり帰る。DJ君は大抵、夜まで起きてこない。本来なら今は、僕が一人でのんびりできる貴重な時間なのだ。早く家に戻って、ネットでえろ漫画でも見たい。今日は大好きな双龍先生の、『姉と弟とセッ』の更新があるのだ。
「あの伊集院さん……」
「なんだい?」
「もし良かったら、ヨーカって呼んでくれませんか? 私の本当の名字は、怒野っていうんですけど、どっちにしろ他人行儀だし」
「別に構わないけど、ヨーカはあまり人の名前っぽくないな。もっと何か、普通っぽい呼び方はないかい?」
「じゃあ、以苑でどうですか? 私の妹の名前なんですけど……」
「姉がヨーカで、妹がイオン? ラノベみたいな名前だなあ……」
「本名ですってー」
そういって、彼女は僕に免許証を差し出した。そこには確かに、『怒野 瑶夏』と記されていた。
「無理ならせめて、怒野さんでお願いします。伊藤じゃなんか、自分の事のような気がしなくって……」
(怒野ねぇ……)
ここで僕は、とんでもないことに気づいた。僕がまだ駆け出しの頃、会社の金を横領し、百億円の大穴をあけて会社から追放された、ある上場企業の社長の事を思い出したのだ。彼の名は確か、怒野 大栄と言った。そして、今僕の目の前に同じ苗字のヨーカがいて、その妹は以苑だという。
「もしかして、ヨーカもイオンも本当に本名なの?」
「はい。私の父は運送会社の社長だったんですけど、最大のクライアントが、総合スーパーだったんです。だからって、実の娘にこの名前は酷いですよね」
「もしかして、怒野通運の事かい?」
「よくご存じですね。今はもう、イ○ンに吸収されちゃったんですけど、昔は運送業界で五番手くらいだったみたいです」
怒野は創業オーナーの二代目だ。損失の穴埋めに持ち株を全て没収され、無一文で追放されたと聞く。仕手株が大好きな男で、自らも本尊となって相場を動かしていた。彼は兜町ではI氏と呼ばれて、一時は時の人だったのだ。
彼が資金を入れた銘柄はI氏銘柄と言われ、派手な値動きで人気があった。師匠もその指南役として、彼の相場を手伝ったことがある。
不思議な因縁だなと僕は思った。株で全てを失った怒野の娘が、親と同じく株をやり、大損して目の前にいる。彼女を堅気に戻してさっさと引き上げようと思っていたのに、これじゃ帰るに帰れない。
彼女と会話を交わしながら、僕はこれからどう話を持っていくかを考えあぐねていた。
「お父さんは元気にしてるの?」
「いえ、父はもう十年以上も前から行方不明です。私と妹は、幼い頃からお爺様の元で育てられてましたから、経済的には苦労してないですけど……」
横領事件が発覚した後の大栄氏は、その穴埋めのために所有する怒野運輸の株をすべて没収された。刑を終え、娑婆に戻ってからも、ほとんど素寒貧だったはずだ。堅気に戻ったとも聞いていない。おそらくは、復活をかけてヤバい筋の金を掴み、裏社会の人間に消されたんだろう。
この世界で長く生きていると、人間がいきなり消えるなんてことは日常茶飯事だ。金を回しでもしてない限り、それで騒ぐ人間もいない。帰って来る奴はどこかで金を作ってひょっこり帰って来るし、鉄になったり、アスファルトになったりして、社会のお役に立ってる奴もいる。それだけの話だ。
この物語の中で、以後は伊藤さんの事を瑶夏と呼ぼうと思う。彼女のお父さんである怒野 大栄の事は、僕が慣れ親しんだI氏、もしくは大栄氏と呼ぶ。勿論、本名と言っても、それはあくまでも物語の設定上の話だ。
デタラメばかりの本編と違って、この外伝に登場するキャラクターにはモチーフになった人物がいる。事件もかなり脚色したり、複数の事件をくっつけたりはしているが、大本になった騒ぎがちゃんとある。
だから皆さんには、この物語を単純なエンタメとして楽しんで欲しい。あんまり深く詮索されると色々な問題が出てくるかもしれないからだ。僕はまだ死にたくはないし、物書きとしての未練も多少はあるのである。物語は全てフィクションだし、批判的に描写してるように見える部分は、物語をエンタメとして昇華させるために、意図的にやってることなのだ。
世間的な評価はどうあれ、物語のモチーフとなった全ての人物を僕は愛している。九十年代の半ばから、ほんの数年間だけ存在した仕手株全盛期を知る人間の一人として、あの時代の空気をちゃんと作品として残しておきたい。
僕の心の中にあるのは、ただそれだけだ。
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