「ボクは死んでもラノベなんか書かないからな!」
ベッドの上に立つ金髪少女の大きな瞳はウルウルと涙で縁取られ、小学生にしか見えない小さな身体はワナワナと震えていた。
「絶対! 絶対に書かない! あんな低俗で、下品で、おもしろみの欠片もないクズ紙……絶対に書かないからな! ボクは純文学作家だ! こればかりは譲れない。いくら苦労をともにした担当者であるキミの頼みであってもだ!」
少女が小さな膝を曲げ、バネの要領でベッドから飛び降りた瞬間――。
細くてきめ細かい金色の髪がふわりと宙を泳いだ。
「そんなことを言ってもですね。先生の最近の作品、全然売れてないんですよ。というかそろそろ苦労だけじゃなくて楽もさせてください」
俺は目の前の中学生にしか見えない少女に右の手のひらを突き出す。
「五。これ、何の数字か分かります?」
「それだけで分かるわけがない!」
「新作、塩キャラメルの憂鬱が売れた数です。五〇〇冊、たった五〇〇冊ですよ! 発売から一ヶ月経ってるのに五〇〇冊しか売れてないんです! 何が新鋭作家ですか。全然新鋭じゃないですよ。新鋭ってアレですよ。新しく現われて勢い盛んで優れてることです。これじゃあ先生は新【鈍】作家ですよ!」
「し、新鈍!? 何だか分からないけれど、今のはかなりムカっと来たぞ! このままだとボクは怒る。キレる若者だ! それでも良いのか?」
「構いません。先生が怒っても全く恐くありませんから。ハムスターの方が恐いくらいです。それにですね、いまやライトノベルの勢いはすごいんです。筆の達者な作家さんもたくさんいます。先生がラノベ作家に転向しても五〇〇冊どころか一〇〇冊も売れないかもしれませんよ」
「ぐ、ぐうぅううう!!!!」
目の前の少女、光ノ院鏡花先生(本名:田中ウメ/二十一歳)は、フーフー鼻息を荒げながら、荒れ狂うハムスターの様相で俺を睨み続ける。
涙を溜める幼女ぜんとした姿に、言い過ぎたかもと罪悪感に似た感情も芽生えるが、ベッドの上に「塩キャラメルの憂鬱新作」が積み上げられているのが視界に入り「フヒッ!」という変な笑いがこぼれてしまう。
サンプルで五冊送ったが、その十倍はあろう数の単行本が行儀よく積み重なっている。
「み、見るな! こ、これはあれだ! ゆ、友人に頼まれて買ったんだ。後で友人に渡すんだ。見栄を張った売り上げ部数の水増しなんかじゃないぞ」
「……」
俺のブリザードな視線に、ウメの幼い顔が真っ赤に染まっていく。
「作家なんて辞めてやるぅううう!!!」
ウメはプリントアウトされた企画書を俺に向かってバラ巻くと、小さな両手で俺を押しのけ、部屋から出て行った。
取り残されたのは主人にばら撒かれ、床に散乱した無残な原稿と、見栄の為に購入された塩キャラメルの憂鬱たち。
そして、作家に逃げられた惨めな担当者と、宿主である新鈍作家が逃げ出した、六畳一間の小さなアパートの一室だけだった。
「はぁ……」
やっぱりダメだったか。
俺は散乱した原稿を丁寧に拾い上げた。
田中ウメ。
俺、宗次郎そうじろうの幼馴染で、天才作家と呼ばれていた彼女は今、猛烈なスランプに陥っている。
高校生の時に書いた小説が新人賞を獲り、十万部以上のヒットを飛ばす輝かしいデビューを飾ったのだが、それ以降は鳴かず飛ばず、遂には新作が五〇〇冊しか売れなくなってしまった。
どれだけ売れない作家でも、返本率は五十%ほどに抑えられるが、ウメの最近の作品は七十%に近い。
今回発売された「塩キャラメルの憂鬱」は発売されたばかりであるものの、このままの推移では同じような道を辿るだろう。
担当者である自分の責任も小さくはない。
だからこそ、今までの「褒めて伸ばす作戦」から切り替え、心を鬼にして対応する覚悟を決めたのだった。
次回発売予定の新作で印刷部数を増やせる作家にならなければ、最悪、ウメはうちの出版社から新作を出せなくなる。
そう言い渡される前に、ウメが出版社にとって――否、読者にとって有益な作家であることを証明しなければならないのだ。
「はぁ……」
だが、もうダメかもしれない。
俺自身がライトノベル部署への異動が決まったのは、ある意味でチャンスだと考えていた。
何故なら、ウメの最大の武器が人物描写の魅力――つまり、キャラクターだからだ。
いくら売り上げが低迷してきたとはいえ、キャラクターの描写力は衰えていない。
キャラクターの描写が重要なライトノベルであれば、感性がハマって違った結果になるかもしれない。
俺だけでなく、ウメもライトノベル作家に転向すれば、まだ芽はあると考えていたのに――。
言い過ぎたかもしれないが、最後のチャンスになるかもしれないのだから、俺も簡単に折れる訳にはいかないのだ。
俺は散らばった企画書を順番通りに並び替え、ウメの仕事机の上に置いた。
彼女の頑張りからすれば、比べるほどのものでもないかもしれないが、これでも徹夜を続けてまとめた企画書だ。
足蹴にされると、徒労感が噴き出すのを止められない。
当の本人があの反応では、転向は難しいかもしれないが……。
俺は大学を卒業して直ぐ、新卒二十二歳で編集者になった。
ウメは作家に、俺は編集者になって一緒に重版出来を目指す――その約束を果たす為、当時、高校生で文壇デビューを果たしたウメを追って編集者になったのだ。
だが、その頃には彼女は「売れない作家」になってしまっていた。
ウメの担当になってから一年。
一緒に企画を考えたり、営業と戦略を練ったり、SNSアカウントを開設したり、考え得るあらゆることをやった。
それでも、結果に反映されることはなく、報告される返本率は上がり、発行部数は落ちていった。
ひたすら長く感じる苦難の一年を思い出すとそれだけで胃が痛くなる。
それでも――。
「編集者が作家を信じないでどうすんだよ……」
俺は頬を叩き、気合を入れなおす。
彼女が凹んだ時、いつも行く場所――近所の小さな遊び場である渋沢公園を思い浮かべ、重い腰を上げた。
「やっぱりここに居たんですか?」
近くの公園でブランコに乗っていたウメは、フンフン身体を揺らしながら、ブツブツ恨み節を振りまいていた。
仕事のときは高校指定の緑色のジャージ姿が多いのだが、当時、成長するのを期待して大き目のを買っていた。
だが、残念なことに彼女の成長はそこで止まってしまった。
つまり、二十歳を超えた今も大き目サイズのままだ。
ウメは俺に気づいた様子だが、ブランコを漕ぐのを止めなかった。
「ボクは帰らないぞ」
フンッと顔を背けられた。
まるで小学生のような態度だ。
「帰りましょう」
「もうボクは作家を辞めたんだ。だからつきまとわないでくれ」
「辞めるの認めてないですから」
「ふん、ボクの性格は知ってるだろう? 一度言ったら曲げない」
「そうですか。……それじゃあ交換条件はどうです?」
交換条件という言葉にウメの前後運動がピタリと止まる。
「……話だけは聞こうか」
現金なヤツめ。
俺は内心でため息をつきつつ、交換条件として成立しそうなものを思い浮かべる。
「私と一緒に秋葉原に来てくれたら、坂口安吾全集を差し上げます」
大好きな作家の名前にピクリと肩を震わせるウメ。
「……内容は?」
「書簡、来簡、往復書簡、公式書状、ノート、メモ類、書画、対談、鼎談の補遺も含めた完全な全集です」
ウメはブランコから飛び降りて言った。
「その話、乗ろう!」
即答かよ。
一度言ったら曲げない人はどこに行ってしまったんだ。
俺は内心で突っ込みながらも、スキップしながら歩くウメの背中を追った。
正直、坂口安吾全集は痛いが、これでウメがやる気を取り戻してくれるなら安いものだ。
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