ウメはさほど気にした様子ではないように見えるが、触発された部分があるのだろう。
勢いよく立ち上がると机に向かった。
俺は座布団に座ってその後ろ姿を見つめる。
だが、それから五分もしないうちに、ウメは何か思い出したかのように筆を止めた。
「どうかしました?」
「いや……」
ウメはゆっくりと立ち上がった。
「そのまま座っているのだぞ」
「はぁ」
ウメは突っ立ったまま、うつむいてその場で固まっていた。
何やら考え事をしているように見えた。
握った拳は小さいけれど、何かの意思がこめられているように見えた。
何がしたいのか本気で分からないが、その表情は真剣なので茶化さないでおく。
ウメは少しためらいつつも、俺の背後に回って肩に両手を載せた。
突然で驚くも、俺は振り向かず、されるがまま黙っておくことにする。
「宗次郎。ボクはずっと考えていたんだ。ライトノベルと純文学の違いについて」
葉月先生から投げかけられた問いだ。
直ぐには答えられなかった問い。
あれからずっと考えていたのだろう。
何事に対しても真摯で、意外とマジメなウメらしい。
そう思いつつもとぼけた返事をする。
「そうなんですか?」
恐らくウメは形のよい唇を曲げ、フッと笑ったのだろう。
振り返らなくても分かる。
「実は双方に根本的な差などなかった。ボクにとってはね」
「……そうなんですね」
「ボクにとって物語とは『何を表現したいのか』それが大事なのだ。そして、それは純文学でもライトノベルでもできる。しかもライトノベルはね、本にあまり触れてこなかった人でも気軽に読むことができる。知っていたかい? ボクの作品を中学生が読んでいたのだ。部活の帰りに買ってくれたらしい」
SNSで投稿されたファンの書き込みを思い出す。
「そういうコメントがありましたね」
「ライトノベルは分かりやすい。それ故に、ボクの想いを広く届けてくれる。ボクは……ライトノベルのことが好きになってしまったのかもしれない」
「それは良かったです」
正面から素直に言えなくて、こんな方法をとるのがウメらしくて――。
俺は少しだけ笑いそうになってしまう。
「それから……その……」
言いにくそうに言葉に詰まるウメ。
どうかしたのだろうか、振り向きたくなるのを寸前で留める。
留める代わりに言葉で続きを催促する。
「何です?」
「ボクの知らないところで、色々と頑張ってくれたのだろう……」
小さな手の温もりが肩に伝わる。
その温もりに、心臓がトクンと跳ねる。
「そうでも……ない、です」
「ふふ、カッコつけたがりのキミらしいな」
真後ろから聞こえる優しい声。
少しだけ寄りかかられて、ウメの体温が伝わってくる。
吐息が頭にかかり、俺は顔が火照るのを止められなくなる。
「ありがとう……」
彼女はどんな表情で、どんな気持ちで、その言葉を紡いだのだろうか。
こちらからは顔が見えないので、表情は分からない。
それでも、ここ数週間の冷や冷やさせられた出来事を帳消しにする対価としては十分だった。
そもそも対価なんて求めていなかったはずだけれど。
それでも、頬が緩むのを止めることができない。
「さ! デレタイムは終了だ! キミの大好きなツンの時間だ、シャキシャキ頑張りたまえ! かわいいボクの為に!」
「先生! そのセリフ最低最悪です」
「ふん、事実なのだから仕方がないだろう」
ウメは赤くなった顔を隠すように執筆作業に戻った。
うちの自慢の先生は、照れ隠しも飛び切りかわいいなぁ。
そう思いつつ、俺は立ち上がって大切な仕事の一つである「牛乳注ぎ」の為に台所へ向かうのだった。
そして、そして、そして。
これで奮闘記録は幕を閉じ「めでたし、めでたし」と話を括りたいところではあるのだが。
俺は最後の最後で、もう一度泡を吹かされることになる。
先入観というのは恐ろしいものだ。
俺はココアさんのペンネームは「ココア」だとばかり思っていた。
だってそうだろう。
日本全国のココアさんには申し訳ないが、珍しい名前であることは間違いない。
作家でココアと名乗られたら、十中八九「ペンネーム」だと勘違いするんじゃないだろうか。
まさか「本名」だとは全く気づかなかった。
ココアという名前が本名で、ペンネームが別にあることを知ったのは、先生のマンションをもう一度訪れ、編集担当就任の挨拶をしに行った最初の日だった。
ココアさんは悪い人だ。
全てを分かっていた上で、俺やウメにペンネームを伏せておいたんだろう。
「あーん! ようやく私の担当になってくれるのね!」
「ココアさん! 何で最初に言ってくれなかったんですか!」
「え、ペンネームのこと? 言うタイミングなんてなかったでしょ? それより、せっかく鏡花の復活に協力してあげたんだからさ。彼女にどんな魔法の言葉を使ったのか教えてよ」
書きかけの原稿、空き缶となった缶コーヒーの数々、煙草の吸殻に囲まれるスウェット姿のココア先生……。
ペンネームは「俊三郎」先生――。
これまでウメが――いや、俺たちが戦ってきたライトノベル業界の大御所は、何とココアさんだったのだ。
そのココアさんが、まるで子供みたいに大きな目を輝かせる。
彼女にどんな魔法の言葉を使ったのか――。
俺自身は魔法の言葉だなんて大げさなことは思っていないし、本心を告げただけではあるのだが、口が裂けても言えない。
だってそうだろう。恥ずかしすぎる。
俺はつい先日、ウメのアパートで口にしたセリフを思い出し、自分でも赤面しているのが分かった。
「そ、そんなことより打ち合わせを始めましょう!」
上ずった声で提案する俺に、ココアさんはジタバタと手足を振る。
「あーん、気になって頭が全く働かないおぉ! 一文字も書けないおぉおおおおお!」
この人、俺がウメにどんな言葉をかけたのか絶対に想像ついてるでしょ。
それを俺の口から言わせるとか、どれだけサディスティックなんだ。
この人のこと、少しだけかっこいいと思ってしまった過去の自分をぶん殴りたい。
感謝はしてるんだけどさ。
何だか全部、この人の手のひらの上で転がされていたみたいで、考えれば考えるほど恥ずかしくなって来る。
俺は新たにできた問題児を無理やり引きずってソファに座らせつつ、平机の上に打ち合わせ用のノートパソコンを広げた。
俺は半泣き状態で「鬼~! 襲われるぅ~!」と連呼して暴れるココアさん――。
つまり、俊三郎先生に深いため息を漏らしながら、もう一人の問題児のことを思い返す。
見た目幼女だけれど、曲げない信念を持つ頑固者で、でもチョロいところもあるかわいい金髪少女のことだ。
彼女には今後もたくさんの本を書いてもらって、たくさんの読者を楽しませてもらいたい。
何せ、とあるファンは光ノ院鏡花の作品がたくさん生まれるのを楽しみにして、本棚一つ丸々を「光ノ院鏡花全集用」として取ってあるんだ。
本棚一つで足りないなら、喜んでもう一つ買う覚悟だってある。
先生の作品を楽しみにしている読者がいる。
ただ一人だけになったとしても、そのファンは光ノ院先生の作品を楽しみに待ち続けるだろう。
それで、先生には思いっきり笑って欲しい。
うまく楽しませることができた、計算通りだって言って笑って欲しい。
大先生がしっかり小説を書いてくれるのだったら、俺は火の中水の中――。
火の中は無理かもしれないが、現実味がある場所であれば、どこでも飛び込むし、何だって力になるさ。
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