借りていた本を返しに行ったある日――。
俺はウメに話したいことがあった。
恥ずかしいので目は逸らさずにはいられなかったけれど、俺はちゃんと話をした。
「俺さ……ダサくなったらしい……」
突然の発言にウメはキョトンとしていた。
だが、さも当然と言わんばかりにこう答えた。
「誰かに言われたのか? 気にすることなどない」
「あぁ、気にしてない。俺……今の自分、嫌いじゃねぇんだ」
ウメは少し驚いた顔をして、少しだけ笑った。
「本当はこういう生き方に憧れてたのかもしれない。でも、何も積み上げてこなかったし、自分には無理だってあきらめていた」
「そうなのか。早いに越したことがないかもしれないが、遅くても積み上げられるものだぞ。人一倍頑張れば追い越すことだってできる」
「そうだよな。俺……出会ってからずっとウメに甘えてばっかりだ。ウメが見ていてくれたから……自分を見失わずに済んだんだと思う。そういうところは素直にダサいって思うよ。いつか恩返ししないといけないって考えている。その……ありがとう」
ウメの顔はニヤニヤ顔に変わっていた。
自分の言ったことが急に恥ずかしくなる。
いや、恥ずかしいことだとは分かっていても伝えたかったのだからこれでいいんだ。
いいはずなのだが――。
「クク……ハハハッ!」
最後は大笑いだ。
顔を上げると、ウメは口を大きく開け、涙を流して笑っていた。
「そんなに笑うことないだろ!」
さすがに笑いすぎなので抗議すると、ウメは目の端を指で拭った。
「いや……フフ。おもしろくてな。悪い意味ではないが、宗次郎はバカだ」
「バカって……悪い意味以外にどんな意味があるんだよ」
「甘えられる人間がいるのは良いことだ。人生とは甘え合いなのだから」
「ちっこいのに人生を説かれるとはな」
フッと笑うとウメが立ち上がった。
「だって、ボクを見てみろ」
両手を広げ、穏やかに微笑むウメ。
背後の窓から光が漏れ、後光がさすウメは綺麗だった。
俺は彼女が何を言いたいのか理解した。
ウメは病弱で、ずっと誰かの力を借りて生きてきた。
「……一人で苦しむな。誰かに頼り、甘えることは悪いことではない。むしろ、甘え上手になれば良い。そして、その代わり、宗次郎も誰かに甘えてもらえる人になればいいのではないか?」
本当はもっと自分の力で生きたかったかもしれない。
でも、それは許されなかった。
だから、その言葉は自由に生きて、反抗してきた俺の胸に深く突き刺さった。
俺はその真剣な答えに真剣で応えるよう、真っすぐウメの目を見た。
「あぁ、そうだな」
「しかし、アレだな。宗次郎が礼をすると言ったのに、また世話になっていては面目丸つぶではないか?」
「その通りだ。面目ない」
真剣な話の後は茶化して重くしすぎない。
こういうところもウメの尊敬しているところだ。
もうこれ以上、ウメが調子に乗りそうなことは言わないけど。
「そこで一つ提案がある。宗次郎は編集者になりたいと言っていたな」
「ああ」
「それじゃあ、礼を返す方法があるぞ」
「どういうことだ?」
今度は何故かウメが恥ずかしそうな顔をしていた。
本棚に飾られた本の裏をゴソゴソと探り、取り出したのは紙の束だった。
うつむきながら突き出されたその紙こそが、ウメの書いたオリジナルの小説だった。
ウメから渡された紙の束はずっしりと重く、努力のほどがうかがわれた。
それからは不定期でウメの小説を読ませてもらうことになった。
ウメの書く小説はいつも俺を興奮させ、笑わせてくれた。
それは何故か? 単純な話だ。
それら物語は「俺の為」に書かれたものなのだから。
どうやったら俺が楽しめるのか、どうやったら俺が驚くのか。
俺の趣味や関心事に合わせて作られた小説は、実際に俺の興味を最大限に引き出させた。
俺がウメの小説を読んでいる間、ウメはジッと俺の顔を見ていた。
そして、俺が驚くのを見て、俺が笑うのを見て、ウメは「計算通り」と笑顔をこぼした。
デビュー作とそれ以降の作品の違い。
それはただ一つ。
俺の為に書かれたものか、それ以外の人間に書かれたものなのか。
その違いだけだ。
作家にもタイプがある。
好きなように書いた方がおもしろくなるタイプ。
分析して書くことでヒットを生み出すタイプ。
ウメは前者だったのだ。
だからこそ、俺は顔を上げ、ウメの相貌を見据えて口を開いた。
俺自身の言葉で。
はっきりと伝えた――。
「俺の為に小説を書いてくれ!」
ウメの瞳がゆっくり見開かれる。
しばらくの間、何度も声を出そうと試みるも、言葉が形にならない様子だった。
「……い、いいのかい? これが最後のチャンスになるかもしれないのだろう?」
「いい。俺は信じている。それが一番おもしろい。ウメは……流行りやテンプレに乗って書く作家じゃない。『流行りを作れる』作家だ。ウメの信じるおもしろいものを作ってほしい」
俺はそこで言葉を一旦切った。
「とにかく……昔みたいに、俺が楽しめる小説を、驚く小説を書いて欲しい。俺は……その小説を読みたい」
ウメは目を見開いたまま、瞬きもせずに俺の双眸を射抜き続けた。
そして、一度うつむいて一人でブツブツと呟いた後、顔を上げた。
「分かった。ボクの一番のファンがそう言うのだからな。キミのことを信じよう」
ウメは机に向かうと、水を得た魚のように軽快に鉛筆を走らせた。
その筆は一度も止まることなく、すいすいと進む。
「宗次郎、今更新している物語は未更新のものも全部公開状態にしてくれ」
「え、それってまさか……」
「今のは今ので完結させ、全部書き直す」
「全部って……決着の日まで残り九日しかないぞ」
「最短三日で十万字書いた。物語の本筋は変えない別バージョンとして出すし、余裕だ」
時間はもうないというのに、ウメは嬉しそうだった。
その背中を見ていると、俺の頬も緩くなる。
ピンチだっていうのに、何なんだろうな。
ウメの家へ遊びに行った遠い昔の興奮が、胸に広がる甘い期待感が、仄かに甦る。
「ひとまず序章と第一章を書いた」
鉛筆を置いたウメは恥ずかしそうに原稿を突きだした。
昔のように、手書きの原稿を恥ずかしそうに渡す光景は懐かしくて、俺は少しだけ緊張しながら受け取った。
原稿を確認する。
冒頭の一行を読んだ瞬間から引き込まれる。
偶然生まれた一行ではない。
読めば読むほど続きが気になる。
数ページめくると、それはもう間違いのない「変化」であると確信した。
見せたい相手を想定して書く。
それだけでこんなにも違うのだろうか。
驚き、喜び、悲しみ、色々な感情でひっぱられる。
「人称も変えたのか?」
「ああ、三人称から一人称に変えた。こっちの方が入り込めると思ってな」
「一人称に変えると書きにくい部分も出てくるんじゃ……」
例えば主人公がいないシーンを書くことができない。
「宗次郎を驚かせたり、喜ばせたりするにはそのやり方が一番いいんだ。だから仕方がない。一人称で書きにくい部分はどうにか工夫するさ」
「なるほど、序盤で一度、主人公の男気を見せるようにしたのか」
「キミは……そういうのが好きだろう? 先まで読んでもらうには、こういう物語だと最初に提示する必要があると考えた」
「分かってらっしゃる。キャラの方向性も早い段階で掴みやすくなった」
俺は興奮していた。
活字を目で追っているだけなのに。
懐かしい感覚――。
つい最近まで体感し、忘れていた感覚に、俺は声を荒げる。
「どうなるんだ? この続き?」
「ふふん、それは明日のお楽しみだ」
ウメは得意げに笑うと、机に向き直って鉛筆を走らせた。
「手書き原稿からのテキスト起こしは手伝うよ」
「本当は編集者の仕事ではないだろう」
「……やらせてくれよ。だって」
「早く続きが見たい、か? まったく」
「ちなみに感想は……」
「言わなくていい。顔を見ていたら嫌でも分かる。全くキミは昔から変わらないなぁ」
残り九日、ウメの作品がどれだけアクセス数を稼ぐのか。
それは結果発表の日まで分からない。
しかし、新しく公開した作品は、同一作品にも関わらず、これまでとは違う反応を示した。
大勢の読者が「おもしろい!」と絶賛し、ツイッター等で拡散したのだ。
ブログに紹介記事を書いている人もチラホラ見かけた。
「光ノ院が書き直したやつ見た? これ、めちゃめちゃおもしろくない?」
「確かにおもしろくなってた。明日の更新も期待」
「光ノ院VS俊三郎先生! 決着間際で急展開か!?」
勿論、否定的な声もあったし、アンチの数も相変わらず多かった。
ターゲットを絞った結果、持ち味は鋭くなったが、好き嫌いが激しくなったのだろう。
それでも、徐々に好意的な意見やファンが増えているのは間違いなかった。
見るからにウメの作品の注目度が上昇している。
アクセス数やブックマーク数もどんどん増えていった。
それでも、九日間で公開するということは、一回一回の分量が多いということ。
それはデメリットでもある。
この追い上げで、俊三郎先生に勝てるかどうかは分からないということだ。
俊三郎先生の作品は最初から拡散され続けているし、固定ファンの応援も大きい。
俺は退勤後も時間があればスマートフォンで管理ページにアクセスし、読者の反応やアクセス数を確かめた。
家に帰って風呂に入っている時も、スマートフォンを持ち込んで反応を確認。
SNSや掲示板を使っての宣伝など、できる限りのことをした。
そして、訪れた第五週目、最終日――。
ウメの運命を決める日であり、お互いの合計アクセス数が発表される日が訪れた。
伏見編集長も秋葉さんも来られないとのことだったので、俺とウメだけで集計結果を確認することにした。
落ち着かないのか、ウメは俺の部屋をぐるぐる回っていた。
「山の手線みたいだ」
「む、褒めても何も出ないぞ」
そうか、山の手線=ぐるぐる同じところを回っている=かわいいの図式が未だに成立しているのか。
俺はようやく落ち着いてベッドの上に座ったウメに対して話しかけた。
「ウメ、実は伝えないといけないことが……」
「何だ?」
「実は今回負けてもライトノベルデビューはさせてもらえそうだ」
「そうなのか?」
「アクセス数は十分だからね。社長にも納得してもらった」
「そうか……」
「早めに言わなくてごめん」
「言わなくてよかったよ。それを知っていたら手抜いたかもしれないし。それに」
「それに?」
「ボクは勝つさ。何たって最強の相棒がいるのだから」
歯を見せて笑うウメを見て、俺の言葉は途切れた。
負ければ担当を降りる。
その事実だけは伝えることができなかった。
長い待ち時間の後、俺はウメの管理ページをブラウザで立ち上げた。
十二時きっかりにお互いのアクセス数を公開する。
俺はマウスを操作し、そのリンクの上に矢印のカーソルを移動させた。
「いいか?」
「構わない……」
俺はその言葉を確認した後、マウスを左クリックした。
ウメの作家人生を分ける最後のチャンス……。
その結果は――。
ウメ、576209アクセス――。
俊三郎先生、576210アクセス――。
「これは……え」
相当な追い上げがあったのは間違いない。
その結果、何と俊三郎先生とほぼ同じアクセス数まで伸びていたのだ。
だが――。
まさかの1アクセス数負けていた。
「嘘だろ」
さすがに1アクセス差はキツい。
笑い声しか出ない。
「負け……かぁ」
ウメが囁くように言葉を漏らす。
「でもすごいですよ。大御所に1アクセス数差。十分な結果です! この分なら書籍も成功しますよ!」
「でも――」
その声は僅かに震えていて――。
それでも、途切れないように必死で紡がれているようだった。
「……キミは……まだ隠していることがあるのだろう?」
俺はウメの顔を見ることができない。
ここまでだ。
俺は観念した。
「……俺は……いや、私は……ウメ先生の担当を離れます」
「キミは昔から隠し事が下手だ。分かりやすいな」
ウメは深呼吸するように息を吸い、小さく吐いた。
「ファンとしてウメ先生の作品を追い続けますよ」
「帰れッ!」
ウメは本を投げつけようとして、寸前で止め、椅子を投げてきた。
「ちょ、それはちょッ! 痛い!」
「キミは……どうせ交渉の材料でそう約束したのだろう!」
「……」
「ボクの為ならとか思って! 全然、為になってなんかいない! キミが担当じゃないなら、ボクはッ!」
「それ以上はッ!」
「……」
「言わないでください。これで……いいんです」
ウメは泣いていた。
小さく肩を揺らして泣いていた。
だから、俺は何も言えなかった。
どう声をかければいいのか分からなかった。
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